モンテレイ Monterrey

ガリシア州オウレンセ県

プエブラ・デ・サナブリアからオウレンセに向かう途中、何キロも先から山の上にお城が見えてきます。中世からあった城塞が時代とともに増改築され、宮殿、教会、施療院などのある要塞都市といった様相となりました。

上の写真:最上部、一重目の城壁の中に、左から「モンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔 (Palacio del Conde de Monterrey con la Torre de las Damas)」、「サンタ・マリア・デ・グラシア教会 (Iglesia de Santa María de Gracia)」、奥に城塞の主塔(Torre de Homenaje) 。手前に2重目の城壁、その下に3重目の城壁が見える。

最上部にある城壁。奥にモンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔。
「王の山」モンテレイ

モンテレイが歴史に登場するのは10世紀、当時の名前は「Castrum Baroneceli」で、すでに何らかの要塞があったようです。この地方の有力者エルメネヒルド・グティエレスという人物の所領でした。エルメネヒルドの孫で後に聖別されることになるロセンドが10世紀、セラノバ(モンテレイから西に60kmほど)に修道院を建立すると、この地は修道院の所領に。彼らはローマ教皇庁も巻き込んで、この地が王領となり城塞をいただくのを阻もうとします。モンテレイは、カスティージャとガリシアをつなぐ交通の要所にあるうえ、12世紀にカスティージャから独立したポルトガルとの国境から近かったため、王たちは植民をし教会を建て…既成事実を作りながら、13世紀になってようやく、修道院領から独立した王の山(Monte de rey)「モンテレイ」を誕生させたのでした。その間にも、ポルトガル国境付近には、城塞や塔による防衛網が建設されていました。

ビエドマ家登場

14世紀になると、モンテレイの歴史にビエドマ家が登場。アルフォンソ11世の家臣であり、ガリシア前線総督。レモス伯爵(ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ)の宮宰(Mayordomo)でもあったルイ・パエス・デ・ビエドマがモンテレイの城塞主に。この人物が、モンテレイの城の建設にかかわっていたと考えられいます。1340年ごろの史料によると、王から複数の要塞の領有(Tenencia)を賜り、その中に「モンテレイの塔」も含まれているとのこと。

カスティージャ内戦…ちょっと長くなってしまいます…

14世紀、ペドロ1世とエンリケ2世の間の王位をめぐる内戦にも、モンテレイはドラマチックに登場します。ルイ・パエスを継いだフアン・ロドリゲス・デ・ビエドマははじめ、ペドロ1世に忠実な家臣でした。しかし、内戦終盤になるとエンリケ2世側に寝返り、これがガリシアにおけるペドロ1世派の抵抗が潰えた一因となります。

1366年、王国のコントロールを失ったペドロ1世は、ポルトガルのチャベスからモンテレイへ。ペドロ1世はここで、内戦を通じてペドロ1世に忠実だったレモス伯爵フェルナンド・デ・カストロに会い、ナバラ王やランカスター公に救援を求める手紙を送ると、コルーニャから海路バイヨンヌへ向かいます。他方、フェルナンド・デ・カストロはガリシアでエンリケ派に対する反乱を起こします。ガリシアの貴族の多くがフェルナンド・デ・カストロの下に結集しますが、モンテレイのビエドマはエンリケ支持を保ち、ペドロ派の攻撃に屈しませんでした。この時は、ペドロ1世とランカスター公の連合軍進攻の知らせを受けたエンリケ2世はガリシアを捨て、ナヘラの戦いでの敗戦を経て、一時期アラゴンに避難しますが…。

しかし、結局、1369年年にモンティエルでエンリケ2世がペドロ1世を殺し内戦は終結します。これを受けて、カスティージャ王位を狙うポルトガルのフェルナンド1世はガリシアに進軍。この軍にフェルナンド・デ・カストロや最後までペドロ1世に忠実だったメン・ロドリゲス・デ・サナブリアも加勢し、モンテレイを奪回すると、1371年まで、モンテレイはポルトガルが堅持していました。1371年、カスティージャとポルトガルが和平を結び、ポルトガル王フェルナンド1世とエンリケ2世の娘レオノールの婚約が成立。モンテレイはレオノールの持参金(Dote)に含まれる予定でした。しかし、この婚約は破棄され、和平も決裂。モンテレイはエンリケ2世の手に渡ります。メン・ロドリゲス等はしばらくガリシアで抵抗を続けますが、結局、西葡和平でペドロ派は国外退去を言い渡され、バイヨンヌ、あるいはポルトガルへ。

この後は、いつもの通り…フアン1世がディエゴ・ロペス・デ・スニガにモンテレイを授け、その子にモンテレイ子爵の称号を与えます。その後、カトリック両王がサンチョ・サンチェス・デ・ウジョアにモンテレイ伯爵の称号を授けました。モンテレイは婚姻関係により、スニガ家、ウジョア家、アセベド家…、と領主が変わっていきました。

最上部の城塞都市

城塞で突出するのは高さ22mの主塔(Torre de Homenaje)。「ドン・サンチョの塔(Torre de Don Sancho)」とも呼ばれます。入口は2階の高さにあり、入るには跳ね橋が必要でした。1482年、1代目モンテレイ伯爵サンチョ・サンチェス・デ・ウジョアによる建設(入口の上部の石にその旨が記されています)。ではあるのですが、大部分は、モンテレイから南に7kmの場所にあった別の城塞から移築されたものだそうです。この部分では、切石に刻まれた無数のシンボルも目を引きます。これは建設時に石工たちが記したサイン(仕事の対価を計算するのに必要でした)。

もう一つの塔、宮殿にある「貴婦人の塔」は、14世紀に建設された古い要塞の塔が、16世紀末、伯爵宮殿建設の際にここに取り込まれたものと考えられています。その伯爵宮殿は16世紀から17世紀に建設されたルネサンス宮殿。華奢な柱に支えられたアーチが連なる繊細で優雅なファサードが印象的です。宮殿の西側は、城壁の一部となっています。

武器の広場から見た伯爵宮殿

サンタ・マリア・デ・グラシア教会は、13世紀の建設。アルフォンソ10世の庇護のもとセラノバの修道院が建立したもの。ロマネスクのシンプルな建物ですが、豊かな装飾が施されています。ティンパヌムや柱頭などの彫刻は造詣がかわいらしい💓

後陣部分の窓は、様々なシンボルで飾られており、中にはダビデの星(六芒星)もあります。モンテレイには中世にユダヤ人共同体が存在し、ユダヤ人墓地も発掘されています。

教会内では、花崗岩に彫刻されたロマネスクのレタブロ(祭壇背後の飾り壁)が秀逸。キリストの受難を表しています。(私は見ることができませんでした😢 写真は下のWEBで。)

対ポルトガル

16世紀末、フェリペ2世がポルトガル王位を継いだため、しばらくは西葡国境は消滅していましたが、1640年、カタルーニャに次いで、ポルトガルでもカスティージャに対する反乱が起こります。

モンテレイでは、フェリペ4世が城の近代化を命じ、中世の城壁の南北面に稜堡(死角をなくすため城壁から突出して建設された部分)が増築され、周囲に大砲用の銃眼のついた城壁を建設。これら城全体を囲んで、さらに外側に稜堡付きの城壁が巡らされました。稜堡に「1664年、フェリペ4世の治世に建設」と彫られています。

広大な敷地内にはイエズス会の修道院とフランシスコ会の修道院がありましたが、どちらも18世紀から19世紀に放棄され、建物はベリンの町の道路などの建設素材として使われました。

メキシコのモンテレイ

メキシコ北部の町モンテレイの名前の由来は、このモンテレイ。16世紀、モンテレイで生まれ育った(後述のイエズス会の学校で教育を受けた)第5代モンテレイ伯爵ガスパール・スニガ・アセベドは、フェリペ2世によりヌエバ・エスパーニャ副王に任命され、メキシコに赴きました。当時スペインはメキシコの北へと支配地を広げており、新しく建設した町を副王にちなみ「モンテレイ」と名付けたのでした。

2つのパラドール

① 2015年、伯爵宮殿はパラドールとしてオープンしました。ガリシア州がパラドールに75年間、使用権を譲渡する形でオープンにこぎつけた宿泊施設でしたが、もともとお城は文化施設として利用される予定だったことから、お城のあるベリンの住民からは反対の声が上がり、係争の末、パラドールは一時閉館に追い込まれました。

② モンテレイ城の向かいの丘には、1967年にオープンしたベリンのパラドールがあります。この場所には、16世紀から1768年(イエズス会追放令の年)までイエズス会の学校がありました。1590年ごろ在校生は1200人にのぼったとの記録もあるそうです。ただし、当時の建物は残っておらず、パラドールがあるのは後年に建設された、ガリシアで「パソ」と呼ばれる邸宅風の建物。緑豊かなガリシアの風景の中に建つお城を眺めながら過ごすのも、一興かも。(年に数回の閉館期間があるのでご注意を)

① Parador Castillo de Monterrei
Castillo de Monterrei, s/n 32618 Monterrei (Ourense)
+34 988 02 92 30
monterrei@parador.es

② Parador de Verín
Subida a Monterrei, s/n 32600 Verín (Ourense)
+34 988410075
verin@parador.es
年に数回、閉館期間があるのでご注意を。
WEB

カラトラバ・ラ・ヌエバ Calatrava la Nueva

カスティージャ・ラ・マンチャ州シウダ・レアル県

カラトラバ騎士団の要塞修道院。1212年のナバス・デ・トロサの戦いの直後に建設されました。要塞の壮大さもさることながら、教会のファサードを彩る赤い火山岩のバラ窓が圧巻!

カラトラバとは

シウダ・レアルの近く、カリオン・デ・カラトラバ村から北に5kmほど行くと、カラトラバ・ラ・ビエハ(旧カラトラバ)という要塞都市の跡があります。史料に初めて現れるのは8世紀の終わり、イスラム勢力がイベリア半島に上陸してからほどなくして建設されたようです。カラトラバの語源はアラビア語の「カルアト・ラバーフ」。「カルアト」はスペインの地名によく出てくる「アルカラ(=アル・カルアト)」の語源にもなっており、要塞、お城の意味。「カルアト・ラバーフ」はラバーフ要塞といったところでしょうか。ラバーフは人名から来た呼称と考えられています。つまり、異教徒と戦うためにできた騎士団の名称が、その異教徒の言語を起源に持っていた、というわけです。

カラトラバ騎士団の誕生

1085年、カスティージャ王アルフォンソ6世がトレドを征服すると、旧カラトラバをはじめこの地方の要塞はカスティージャ王国が支配。しかし、すぐにモロッコから上陸したムラービト朝に再征服されてしまいます。12世紀半ば、アルフォンソ7世がこの地方を再び占領。1150年、旧カラトラバ防衛のために、王はこの要塞をテンプル騎士団に与えました。ところが、イスラム勢力の脅威は衰えるどころか増すばかり。またもやモロッコから上陸したムワッヒド軍の勢いを前に、旧カラトラバの防衛は不可能と考えたテンプル騎士団は、これをアルフォンソ7世を継いだサンチョ3世に返還しました。

旧カラトラバを失うと、トレドが危険にさらされることになります。サンチョ3世は、旧カラトラバを守る気概のある者にこの要塞を与えることを決め、貴族たちを集め希望者を募りました。ここで手を挙げたのが、シトー会に属するサンタ・マリア・デ・フィテロ修道院(ナバラ)の修道長ライムンドとディエゴ・ベラスケスという名の修道僧でした。

ライムンドとベラスケスは、サンチョ3世から旧カラトラバをもらい受け、大勢のシトー会修道士を伴って、旧カラトラバへ。その数、2万人ともいわれます。この大軍の勢いのおかげで、当面は旧カラトラバを死守。しかし、ディエゴ・ベラスケスが死去すると、修道士と騎士からなるグループは求心力を失い、修道士たちはシルエロスの修道院へと去っていきました。後に残った騎士たちは、1164年、初代総長にガルシアなる人物を選出し、こうして、カラトラバ騎士団が誕生。

ところが、1195年、ムワッヒド軍はアルフォンソ8世のカスティージャ軍をアラルコスで破ると、その勢いで旧カラトラバも占拠してしまいます。カラトラバの騎士たちは、サルバティエラ(カラトラバ・ラ・ヌエバのすぐ近く。お城からも見えます)を占拠してここに拠点を置き、しばらくは「サルバティエラ騎士団」と名乗っていました。イスラム勢力支配地で孤軍奮闘していたキリスト教徒の牙城サルバティエラですが、1211年、51日間の包囲戦の末ムワッヒド軍に降伏。翌年のナバス・デ・トロサ以降も、サルバティエラはしばらくイスラム教勢力下にありました。カスティージャ軍による再征服は1213から1215年のこと。

カラトラバ・ラ・ヌエバの要塞修道院

現在、カラトラバ・ラ・ヌエバと呼ばれる場所には、その前にドゥエニャス城という要塞があり、それはヒロン家の所領でした。1197年、ロドリゴ・グティエレス・ヒロンが、その半分をカラトラバ騎士団に寄進し、のちに、彼らの子供たちが残る半分を騎士団に売却。1201年にアルフォンソ8世が、カラトラバ・ラ・ヌエバに対する騎士団の権利を承認し、この地はカラトラバ騎士団の所領となった。という説が有力ですが…ロドリゴがドゥエニャス城をカラトラバ騎士団に寄進したことは確からしいのですが、そのドゥエニャス城が現在のカラトラバ・ラ・ヌエバにあったのかどうか、には異論があるようです。

1212年、有名なナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教諸国の連合軍がムワッヒド軍に勝ち、以降、シエラ・モレナ以北のキリスト教勢力の覇権が確立します。現在のカラトラバ・ラ・ヌエバの要塞―修道院は、この戦いの直後、2013年から建設が始まったものと考えられています。建設作業には、ナバスで捕らえられたイスラム教兵士たちが使われたとのこと。

二重、場所によっては三重の城壁に囲まれた広大な敷地には、中央のひときわ高い場所にお城、その隣りの一段低いところに教会や回廊を含む修道院、お城の周りに粉引場や台所など生活施設、少し離れて宿泊施設があり、まさに要塞修道院という様相。また、城塞に囲まれた広大な敷地には、家や通りのある村のような場所があり、そこに騎士や修道僧たちが住んでいました。ただし、その後すぐに、アルマグロ(Almagro)に騎士団長の館が置かれ、騎士団全体の政務はこちらで行われていました。

お城は狭い空間に塔が並び、塔の中のレコド(かぎ状に曲がった通路)や階段を通りながら、4階建ての屋上まで登ることができます。

教会はロマネスクからゴシックの過渡期の建設。ファサードには、まるでお城の小塔のようなバットレス(控え壁)に挟まれて、入り口の上に赤い火山岩で造られた大きなバラ窓があります。これは15世紀末から16世紀初頭のもの。1755年のリスボン地震の際に残念ながらステンドグラスは割れてしまいましたが、この地震で教会本体が倒壊しなかったのは、火山岩が使われていたため、とのこと。

とはいえ、この地震の被害は大きく、さらに19世紀には教会財産の没収政策の影響もあり、カラトラバ・ラ・ヌエバは放棄されていきました。

ちなみに…

1476年、ローマ教皇の勅書によりカトリック王フェルナンドが、スペインに本拠を置く騎士団の総長に任命され、以来、現在に至るまで、スペインの騎士団(カラトラバ、アルカンタラ、サンティアゴ、モンテサ)の総長はスペイン国王です。16世紀、フェリペ2世は、イサベル・デ・ヴァロアとの結婚後、新婚旅行にこのカラトラバ・ラ・ヌエバを選び、これを機に、要塞への入口へと至る道が整備されました。

おすすめルート

シウダ・レアル(Ciudad Real)

   ↓17km

カラトラバ・ラ・ビエハ(Calatrava la vieja)かつての要塞都市から遺っているのは城塞の一部のみですが。

   ↓62km(約1時間)

カタトラバ・ラ・ヌエバ

   ↓33km

アルマグロ(Almagro)13世紀からカラトラバ騎士団の総長が住む館がありました。現在の建物はつい最近まで増改築が重ねられてきましたが、ムデハル様式の影響がみられるパティオには、アラブやゴート時代の建築素材も使われているとのこと。現在は演劇博物館となっています。また、アルマグロは17世紀の劇場(Corral de las comedias)でも有名。毎年、演劇祭が開催されています。

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