サンタ・マリア・デ・バルベルデ洞窟教会 Iglesia rupestre de Santa María de Valverde

カンタブリア州

カンタブリア州南部バルデレディブレ(Valderredible)地方、カスティージャ・イ・レオン州との州境付近には、エブロ川に沿って洞窟教会が点在しています。これらの教会は、8世紀はじめのイスラム教勢力によるイベリア半島征服後、レコンキスタが進みこの地方がキリスト教勢力により再植民される過程で建設されていったものと考えられています。ただし、初期キリスト教で生まれた隠者たちが活動していた洞窟はそれ以前からも存在し、6世紀から7世紀、西ゴート時代にはすでに洞窟教会が建設されていたという説もあります。

今回は、パレンシアからサンタンデールにむかうN611をアギラール・デ・カンポー(Aguilar de Campoo)の少し先、キンタニージャ・デ・ラス・トーレス(Quintanilla de las Torres)から東に外れてCA273をブルゴス方面へと進み、エブロ川沿いに点在する洞窟教会を紹介します。いずれも、7世紀から10世紀に建設された洞窟教会です。

サンタ・マリア・デ・バルベルデ洞窟教会

外から見ると、まるで鐘楼(12世紀以降)だけが建っているかのようですが、その下に、大きな洞窟教会が隠れています。内部は非常に広く、円柱が支えるアーチにより2廊に分かれています。おそらく、広い廊が最初に建設され、中世を通じて狭い第2廊に拡大されていったものと考えられます。あるいは、もとは洗礼所をアプスとするごく小さな教会だったものが、現在の祭壇の方向へと拡大していったとの説もあります。

教会の外には中世初期の墓地の跡も遺っています。

現在も礼拝が行われおり、内部の見学もできます(月曜日休館―2002年)。

岩を掘って造った教会、岩を削っただけの階段などなど、こうしたプリミティブな建造物に惹かれてしまうのは、子どもの頃の秘密基地願望につながるものがあるのでしょうか。見学するのも楽しいし、往時の姿を想像するのも楽しいです。

おすすめルート

アギラール・デ・カンポー*(Aguilar de Campoo)→13km→サンタ・マリア・デ・バルベルデ洞窟教会(Iglesia rupestre de Santa Maria de Valberde)→29km→カダルソ/カルメンの聖母洞窟教会(Iglesia rupestre de la Virgen de Carmen)→3km→アロジュエロ/サン・アシスクロ・イ・サンタ・ビクトリア洞窟教会(Ermita rupestre de San Acisclo y Santa Victoria)→10km→オルバネハ・デ・カスティージョ**(Orbaneja de Castillo)→66km→ブルゴス(Burgos)

*パレンシアからアギラール・デ・カンポー周辺にも、洞窟教会がいくつもあります。中でもオジェロス・デ・ピスエルガ(Olleros de Pisuerga)のサントス・フスト・イ・パストール洞窟教会(Ermita rupestre de Santos Justo y Pastor)は最大級。また別の機会に。

**オルバネハ・デ・カスティージョは、湧き水が織りなす美しい景観で人気の観光スポット。さらに、オルバネハから北東に車で約1時間の場所に、オホ・グアレーニャという鍾乳洞があります。長い年月をかけてグアレーニャ川による浸食によりできた洞窟には、洞窟壁画、埋葬の跡、穀物貯蔵の跡などがあり、先史時代から人々が様々に利用してきたことがわかります。そして、ここにも洞窟教会があるのです。自然の洞窟を利用したサン・ベルナベ教会(Ermita de San Bernabe)は、8世紀から9世紀に建設されたもの。洞窟教会の天井には一面に聖ティルソを生涯を表す壁画が描かれています。(見学可能。オルバネハ・デ・カスティージョから52km/1時間弱、ブルゴスから92km/約1時間半)

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カダルソーカルメンの聖母洞窟教会 Cadalso-Iglesia rupestre de la Virgen de Carmen

カンタブリア州

カンタブリア州南部バルデレディブレ地方には、エブロ川に沿って洞窟教会が点在します。

外から見ると、ごろんとした大岩に玄関と明かり取りようの小窓が開いたかわいらしい風情です。内部は外観から想像するよりも広そうですが…残念ながら見学は不可。1廊だけのシンプルな洞窟教会です。カダルソの村ではなく、村の外、CA273のすぐ脇にあります。

おすすめルート等は、サンタ・マリア・デ・バルベルデ洞窟教会へ。

アロジュエローサン・アシスクロ・イ・サンタ・ビトリア洞窟教会 Aloyuerro – Ermita rupestre de San Acisclo y Santa Vitoria

カンタブリア州

カンタブリア州南部バルデレディブレ地方には、エブロ川に沿って洞窟教会が点在します。

巨大な砂岩をくりぬいて造った教会。中は思いのほか広く、2階建てです。トンネル状の入り口から入ると、ほぼ長方形の平面の中央に角柱があり、その角柱を中心に広がる4つのアーチが天井を支えています。

アプスを区切るアーチは馬蹄形。

2階には登れませんでしたが、壁には、おそらく木製の床を支える梁のためであろう複数の穴がのこっていました。

教会の名前は、4世紀のコルドバの殉教者の名前です。

サン・ミゲル洞窟教会 Ermita Rupestre de San Miguel

アロジュエロからさらに北に細い道を進み、ブルゴスとの県境を越えると、プレシージャス・デ・ブリシア(Presillas de Bricia)の村があります。ここにあるサン・ミゲル洞窟教会は、外から見るとまるでカッパドキアのような岩山に掘られています。私は見学できなかったのですが、短いながら3廊に分かれており、アプスにはやはり岩を削って造った祭壇も遺っているとのこと。

おすすめルートなどは、サンタ・マリア・デ・バルベルデ洞窟教会へ。

モントゥエンガ・デ・ソリア Montuenga de Soria

カスティージャ・イ・レオン州ソリア県

マドリードからサラゴサへ向かう途中、カスティージャとアラゴンの境界、ハロン川流域に建つお城。赤みの強い石の色が印象的です。塔には上から下まで大きな亀裂が走り、今にも真っ二つに割れてしまいそう。

パディージャ家の城?

「パディージャ家の城」とも呼ばれているので、カスティージャの貴族パディージャ家のものであったと思われますが、いつだれが築城したのか…(手持ちの資料では分からず。調べがついたら更新します)。

海抜約900m。村から見上げる岩山の頂上に、その細長い地形を利用して、マンポステリア工法と、角に切り石積みを組み合わせて建設されています。城の両端に塔があり、この二つの塔をつなぐように、城壁が築かれていました。現在はどれも部分的にのこっているだけですが。

カスティージャとアラゴンの間で

ハロン川流域は半島中央からサラゴサへと向かう、交通の要所となるとともに、カスティージャ王国とアラゴン王国の国境を形成し、しばしば両王国の戦いの場となっていました。メディナセリ(Medinaceli)から、モントゥエンガ、ソマエン(Somaén)、アルコス・デ・ハロン(Arcos de Jalón)、マンテアグード・デ・ラス・ビカリアス(Monteagudo de Vicarias)、ラ・ラジャ(La Raya)と、比較的小さな間隔で城や塔が建っているのはこのためです。特にラ・ラジャは、常にカスティージャとアラゴンの境界だったため、争いが絶えなかった一方、ラ・ラジャのお城の麓にある小さな教会(Ermita de Nuestra Sra. de la Torre)はちょうど国境線上にあったため、この教会で洗礼を受けた者は、カスティージャとアラゴンの両者のフエロ(特別法)が適用されたのだとか。

お城の将来

現在は、個人所有です。浸食の激しい土台となっている岩山と、今にも崩れ落ちそうだった塔や城壁は補強され、今後、この場所に住居を建設する計画とのこと。この計画は、お城の保存と景観の維持のため、カスティージャ・イ・レオン州が監督しているそうです。

元のお城から半分以上は失われてしまっていますが、高台に建つ城のシルエットはとてもカッコいいうえ、塔に縦に走る亀裂が強烈で、妙に惹かれるお城です。もうずいぶん前に立ち寄ったのですが、きれいに修復されて博物館になっているお城よりもはるかに記憶に残っています。今後、どのような姿になるのか、興味深いとともに、少々怖い…とはいえ、あのままではいつか塔は崩れ、跡すらなくなってしまいますね。それはそれで、詩的でいいんじゃないか…と、思わないでもないのですが。

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グラナディージャ Granadilla

エクストレマドゥーラ州カセレス県

中世には「グラナダ」と呼ばれていた村。アルアンダルス(イスラム教勢力下)では北のキリスト教勢力からの圧力に耐え、レコンキスタの過程ではレオン、カスティージャ、ポルトガルの国境となり、各時代に重要な役割を与えられていました。城壁は古く、9世紀ごろに建設され、時代ごとに改築・増築されて現在に至ります。お城は、16世紀に1代目アルバ公爵が古い城塞跡に建てたもの。イタリア建築の影響が見られるスマートなお城です。20世紀中ごろ、ダム建設により廃村に。水没は免れ、美しく修復されてはいるものの、帰りたくても帰れない人々がいるというのは、やはり悲しい…。(上の写真は、ダム湖を背景にしたお城)

元祖グラナダ!! 

中世、この村は「グラナダ」と呼ばれていました。8世紀から12世紀前半はイスラム教勢力下で、12世紀から13世紀初頭は、レオン王国、カスティージャ王国、ポルトガル王国の国境近くで、時代ごとに重要な役割を与えられていました。その後、レコンキスタが進み、カスティージャとレオンの国境が消滅するとともに、グラナディージャの軍事的重要性は低下しますが、それでも、この地方の中心的な村となっていました。1492年にカトリック両王を前に、ナスル朝のグラナダが陥落しカスティージャ領となると、こちらの「グラナダ」は「グラナディージャ」(Granada+指小辞のillaで、小グラナダ)に。ただし、公的な文書に「グラナディージャ」として現れるのはずいぶん後になってからのことです。

レオン王国VSカスティージャ王国

1157年、レオン王国とカスティージャ王国が分裂すると(この経緯はティエドラ城で)、グレドス山脈以南の境界線はほぼ銀の道(Via de la Plata )に沿って決められました。1160年、レオン王フェルナンド2世がイスラム教勢力下にあったグラナディージャを征服。再植民をし、城壁を建設し、1170年に「Villa」の称号を与えました。1191年、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世がサンティアゴ騎士団に寄進(同じころ、アルフォンソ9世はポンフェラーダをテンプル騎士団に寄進しています)。この時、グラナディージャを中心にいくつもの領地がサンティアゴ騎士団に与えらえました。再植民を活性化するため、あるいは、ムワッヒド朝やポルトガル、カスティージャの脅威に備えるため、などの理由が考えらえます。

グラナディージャはだれの手に…

その後、再び王領となったグラナディージャは、1282年にカスティージャ王アルフォンソ10世が、息子のペドロ親王に与えますが、ペドロ親王の死後グラナディージャを継いだサンチョが子どもがないまま死去すると、再び王領(フェルナンド4世)に。次は、アルフォンソ11世が子のサンチョ・デ・カルバハルに与え(ポルトガル王ペドロ1世とイネス・デ・カストロの娘ベアトリスと結婚)、その娘レオノールがアラゴン王フェルナンド1世(カスティージャの王族、フェルナンド・デ・アンテケーラ)と結婚したため、その子エンリケの手に渡りました。アラゴン王フェルナンド1世の死後、カスティージャ王国に戻った子どもたちは、フアン2世と対立し、失脚。結局、フアン2世はエンリケから所領を接収し、グラナディージャは1446年に、アルバレス・デ・トレド家(アルバ公爵家)に与えられました。以降、18世紀まで、アルバ公爵家の所領でした。

アルバ公爵家の城

グラナディージャの城を建設したのは、1代目アルバ公爵ガルシア・アルバレス・デ・トレド・イ・カリージョ・デ・トレド。1473年から78年のことです。このお城がある場所には、イスラム教勢力下ですでに城塞が建設されていたものと考えられています。細い正方形の塔の各面に、壁から張り出すように半円の塔が配されています。上から見ると4枚の花弁がある花のような形で、イタリア建築の影響が見られるスマートなお城。螺旋階段を登って屋上に出ると、そこはダム湖と村を一望する素晴らしい展望台です。地下には牢獄と貯水槽も造られていました。

村から城への入り口

他方、村を囲む城壁の起源は9世紀ごろと考えられています。その後、様々な改築や修復を経て現在に至ります。

村を囲む城壁
廃村

1955年、フランコ政権下でたくさん建設されたダムのひとつ、ガブリエル・イ・ガラン・ダム建設のため、グラナディージャの村は国に接収され、人々は移住を余儀なくされました。しかし、グラナディージャは高地にあるため、ダム建設により水没したことは未だかつてないどころか、もともと水没する予定もなかったそうです。

1980年には村ごと文化財として指定されると、お城や城壁などが修復され観光地として生まれ変わりました。夏になると様々なイベントが開催されています。かつての住民の中には村への帰還を訴え続ける人々もいますが、許可が下りないのが現状です。村の中心部は家々が修復され、窓には花が飾られ、とても美しいのですが、生活感が感じられないからなのか、突然、人々が消えていなくなってしまったような、不思議な雰囲気でした。

1950年代までは人々が住んでいた村
おすすめルート

グラナディージャ

  ↓42km

プラセンシア(Plasencia)新旧ふたつのカテドラル、町を囲む城壁、水道橋、宮殿…見どころ満載。また、プラセンシアからマドリード方面に向かうラ・ベラ地方(Valle de la Vera)、アビラ方面に向かうヘルテ地方(Valle de Jerte)、サラマンカ方面に向かうアンブロース地方(Valle de Ambroz)はそれぞれにちがった魅力があって、どれもおすすめ。このうちグラナディージャから近いのはアンブロース地方のエルバス(Hervas)。栗の産地です。

  ↓47km

コリア(Coria)一代目アルバ公爵がグラナディージャと同じ時期に造ったお城があります。このコリアのお城の建設に携わったフアン・カレラが、グラナディージャの築城にも携わっていたと考えられます(個人所有のため、内部の見学は不可)。ローマ時代の城壁、カテドラル…こちらも見どころ沢山の美しい村です。

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エクストレマドゥーラ州 カセレス県 アルアンダルス 中世前期 中世後期 アルバ公爵

メディナ・デ・ポマール Medina de Pomar       

ブルゴス県メディナ・デ・ポマール

ふたつの大きな塔が特徴的な城塞宮殿。塔はそれぞれ15m四方、塔をつなぐ中央の建物は幅22m。塔の壁の厚さは2.5mもあります。重厚で威圧的な印象を与えるお城です。

メディナはアラビア語

スペインの地名によく現れる「メディナ」はアラビア語で町を意味する「マッディーナ」が語源。メディナ・デ・ポマール(リンゴの町?)は、「メディナ」と名がつく市町村の中では最も北にある町です。アラビア語起源の名前であるため、町もこの地方がイスラム影響下にあったころにできたとも考えられますが、町の誕生がいつだったのかはわかっていません。

カスティージャ内戦

メディナ・デ・ポマールが、歴史の表舞台に現れるのは14世紀。カスティージャ王位をめぐるペドロ1世とエンリケ2世の戦い(青池保子先生『アルカサルー王城』♡)の後のことです。この内戦はカスティージャ王国の城の歴史の転機となりました。内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世は支持者獲得のために家臣に城を含む領地の多くを与えました。これ以降、王領にあった城の多くが貴族の所有となり、現在に至っています。また、当時の名家の多くがペドロ1世支持にまわったために没落する一方で、エンリケを支持した新興貴族たちが台頭。アルバ公爵家(アルバレス・デ・トレド家)、フリアス公爵家(ベラスコ家)、インファンタード公爵家(メンドサ家)、メディナセリ公爵家など、今でもマスコミを賑わすことのある名前が、歴史の表舞台にますます登場するようになりました。

ベラスコ家の城

カスティージャ王位をめぐる内戦の末、ペドロ1世を殺し王位に就いたエンリケ2世は、内戦中に受けた忠誠に報いるために、1369年、ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの曽祖父)にメディナ・デ・ポマールを与えました。ベラスコ家は、11世紀ごろから文献に現れる古い一族。古くはアストゥリアスーレオン王家とも関係を築き、時代が下るとカスティージャ王国での地位を固めていきました。特にエンリケ2世以降トラスタマラ朝で、歴史の表舞台に常に登場するようになり、カトリック両王の時代にフリアス公爵位も与えられ、現在に至ります。

この城の建設は、このペドロ・フェルナンデスと妻マリア・サルミエントの手によります。二人は、このメディナ・デ・ポマールから、周囲に持ついくつもの所領を経営しようとしました。

塔に遺るムデハル様式の漆喰装飾

四角いどっしりとした塔は、この地方の城塞によく見られ、塔だけの場合もあれば、城の一画に主塔として建設されている場合もあります。建設当初は、町を囲む市壁に加えて、城の周りに深い堀と城壁が巡っていましたが、市壁の一部を除きすべて失われてしまいました。城への入り口は、塔に挟まれた中央の長方形の建物にあります。入口の右に突き出ている6角形の塔の中には、各階をつなぐ螺旋階段が通っています。威圧的で重たい印象の外観ですが、内部には繊細なイスラム装飾の影響も見られ、向かって左側の塔の最上階には、ムデハル(コカ城参照)漆喰装飾が遺っています。この装飾の中に組み込まれた紋章は、城を建設したペドロ・フェルナンデスとマリア・サルミエント夫妻のもの。

漆喰装飾に組み込まれた紋章
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コカ Coca

カスティージャ・イ・レオン州セゴビア県

レンガが織りなす模様が美しい、ムデハル様式を代表するお城。必見です。

ゴシック-ムデハルのお城の代表格

ムデハルとは、8世紀にイベリア半島の大半がイスラム勢力下におかれて以降、キリスト教勢力によりレコンキスタ(再征服)された地に、信仰や法習慣などを維持しながら残留したイスラム教徒のこと。彼らが伝えたイスラム芸術はキリスト教建築に大きな影響を与えました。レンガ構造、タイルの使用、アルテソナードと呼ばれる彩色格子天井などが特徴。ペドロ1世が建てたセビージャのアルカサルはその最たる例。お城だけでも、コカ城をはじめ、メディナ・デル・カンポのモタ城、セゴビアのアルカサルなどなど、枚挙に暇がありません。

ムデハル様式のコカ城でもっとも目を引くのはやはり、レンガを利用した美しい装飾です。レンガ色が主体ですが、銃眼やパティオの円柱には石灰岩が使われており、レンガ色と白のコントラストも印象的。塔や城壁に多数設置されたタレット(壁から張り出した小塔)とともに、独特の美しい景観を作り出しています。入口のアーチや城内には、壁画装飾も遺っています。

大砲の時代のお城

お城の本体は少しいびつな正方形。その1隅に正方形の主塔、3隅に八角形の塔(城壁から張り出している部分は六角)が配されています。その周りを城壁が取り囲み、こちらも4隅に六角形の塔が建設されています。多角形の塔は各面にタレット(張出塔)が配され、城壁にもところどころにタレットが設置されており、お城に独特の景観を与えています。

城は、村のはずれに建てられています。深い堀は、乾いた川の跡を利用したもの。深い堀に面した外壁は、下に行くほど厚くどっしりとしています。これは、大砲が戦争の主役になった時代のお城の特徴。

もうひとつ、大砲の時代の防衛施設。外壁の塔の地下には筒状の水槽があり、堀の反対側にあった地下貯水槽から水が引かれていました。さらにこの地下貯水槽には地下を通って四方から水が引かれていて、敵が城の地下爆破を狙って地下道を掘った場合、水の振動が外壁の塔の地下水槽に伝わり、これによって敵の地下壕作戦を察知することができるようになっていました。コカのこの装置が実際に役に立ったことがあるかどうかはわかりませんが、例えば、グラナダ戦役の最中、ベレス・マラガ攻防戦の際には、カトリック両王軍の将軍が、塔の下の地下壕に大砲を入れ、塔を倒壊させたとの記録が残っています。

主塔の前に城への入り口。大きな堀を渡って。
フォンセカ家の城、アロンソがいっぱい。

王領だったコカは、15世紀半ばにサンティジャーナ侯爵イニゴ・ロペス・デ・メンドサ(参照:マンサナレス・エル・レアル)に与えられますが、彼はアビラ司教だった(のちのセビージャ大司教)アロンソ・デ・フォンセカ・イ・ウジョア(1415-1473)と、サルダーニャ(パレンシア県)を交換。以後、コカはフォンセカ家の所領となります。アロンソはカスティージャ王フアン2世に城塞建設の許可をもらい、甥であるアロンソ・デ・フォンセカ・アベジャネダがコカ城を相続すると、彼が大部分の建築を指揮しました。このアロンソが死去すると、初代コカ領主セビージャ大司教の妹カタリーナの子、アロンソ・デ・フォンセカ・イ・アセベド(1476-1534/サンティアゴ大司教)がコカを相続します。新領主には娘がいましたが、1504年.カトリック両王は、コカ城は男子のみが相続するよう命じました。その目的は、アロンソの弟でフェルナンド王の側近だったアントニオ・デ・フォンセカをコカの領主にすること。同時に、カトリック両王の反対を押し切って、セネテ侯爵(ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール・イ・メンドサ:カラオラ城)と結婚したアロンソの娘メンシアが城を相続できないように画策したのでした。

後に、コカはアルバ家の所領となり、現在はアルバ家が国に使用権を譲渡しているとのこと。

ボルトジャ川(Rio Voltoya)を渡る前に見えてくるコカ城。
平地のお城というイメージでしたが、意外と高さがあってカッコいいです。
おすすめルート ムデハル様式のお城をめぐる

アレバロ(Arévalo)→27km→コカ(Coca)→35km→クエジャール(Cuellar)→60km→メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)で、ムデハル様式を代表するお城を一気にまわれてしまいます。クエジャールとメディナ・デル・カンポの間、オルメド(Olmedo)には、屋外ムデハル博物館があり、カスティージャ・イ・レオン州にあるムデハル建築のミニチュアが並んでいます。

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ラス・メドゥラス Las Médulas

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

言わずと知れた(?)世界遺産。レオン県ポンフェラーダから車で30分ほど。

約1500万年前に形成された沖積層。この金鉱脈は、ローマ到来以前からすでに原住民が採掘しており、この付近からは金の装飾品が出土しています。

しかし、ラス・メドゥラスを形作ったのはローマ人です。ローマ帝国は、紀元前1世紀、初代皇帝アウグストゥスの時代にイベリア半島北部を征服。間もなく、この地で、ローマ人による大規模な金の採掘がはじまりました。土木技術に長けた彼らは、「ルイナ・モンティウム(山崩し)」と呼ばれる方法で大量の金を採掘しました。それは、水道を建設して近くの山々の水源から水を引いて貯水池に貯め、その水を、金鉱脈のある場所に無数に掘ったトンネルに流し込んで山崩れを起こし、押し流された土砂の中から金を採集するというもの。近くには当時の水道跡も遺っています。

Google Mapで、山の崩れ具合がよくわかります。

オレジャン村のはずれにあるオレジャン展望台(Mirador de Orellán)から、ラス・メドゥラスを一望できます(上↑の写真)。この展望台の近くには、坑道への入り口もあるので是非!人数制限があるので少々待たなければならないかもしれませんが、その価値あり、です。坑道の中は夏でも寒いので、ご注意を。身長160㎝の私でも、腰をかがめて歩かなければならない場所もありました。ヘルメットを貸してくれます*。

坑道を進むと、絶壁に開いた展望台に出る。山崩しを免れた赤土に坑道の跡が見える。

ラス・メドゥラスの村からは、赤土の山の間を通る散策コースがあります。オレジャン展望台にのぼるコースもありますが、往復するとそれなりに時間がかかるので、日没時間など注意が必要です。以前は、ラ・クエボナ(La Cuevona)と呼ばれる赤土のトンネルを通ることができたそうですが、2022年現在、トンネルは残念ながら立ち入り禁止。

散策中
ラス・メドゥラスの村から見た風景。
おすすめルート

モンテフラド(Montefurado ルーゴ県)にも、ラス・メドゥラスのミニチュアのような金の採掘跡があります。また、川筋を変えて川底の砂金を採集するために掘られたトンネルも遺っています。オウレンセ方面に向かって車で50分ほど。

*見学に関する情報は、いずれも2022年夏のものです。

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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 ローマ遺跡 産業遺産

プエブラ・デ・サナブリア Puebla de Sanabria

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

ポルトガル国境まで15kmほどに位置するプエブラ・デ・サナブリア。この村にはお城がふたつありました。村の東端、テラ川を見下ろして建つお城は16世初頭、ポルトガルに起源をもつ貴族ベナベンテ公爵により建てられたもの。村を挟んで反対側にあったお城は、18世紀初頭にポルトガルが建設した星形要塞。どちらもポルトガルが大いに関係しています。

入り口前の広場から。
ベナベンテ伯爵登場

プエブラ・デ・サナブリアの集落は古くから史料に現れており(509年)、1132年からはすでに何らかの城塞があったことが記録されています。ポルトガル国境から15km程度の位置にあるプエブラは、中世から常に対ポルトガル防衛最前線にあり、1273年にはアルフォンソ10世からフエロを与えられています。

14世紀、プエブラ・デ・サナブリアの領主はペドロ1世の側近フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケでしたが、彼の死後(おそらくペドロ1世の命により毒殺)、ペドロ1世がこれをフェルナンド・デ・カストロ(ペドロの愛妾フアナ・デ・カストロの兄弟)に譲渡。更に、ペドロは1356年に、フェルナンドにガリシアの領地を与える代わりに、プエブラをメンス・ロドリゲスに与えました。

その後、ペドロ1世とエンリケ2世のカスティージャ王位をめぐる争いが終結し、トラスタマラ朝が成立した後、フアン1世(1358-1390)は、内戦中の父エンリケ2世に対する忠誠に報いるため、プエブラを、当地の貴族ロサダ家のアルバル・バスケスに与えました。1451年、フアン2世の治世に、3代目ベナベンテ伯爵アロンソ・ピメンテルが、領主フアン・デ・ロサダの未亡人マヨール・デ・ポーラスから、プエブラの半分を購入。さらに、1465年、エンリケ4世から王位の簒奪を狙った異母弟アルフォンソが、プエブラのもう半分(これまではディエゴ・デ・ロサダのもの)を4代目ベナベンテ伯爵ロドリゴ・デ・ピメンテルに与えましたが、アルフォンソの死とともに、この譲渡は取り消されました。イサベル1世とフアナ・ラ・ベルトラネハによるカスティージャ王位継承戦争終結後、カトリック女王イサベル1世は、ポルトガルのアルフォンソ5世(フアナ側)に加担したディエゴ・デ・ロサダから所領を接収し、プエブラの残り半分をロドリゴ・ピメンテルに与えますが、1480年、ポルトガルとの停戦条約締結とともに、この譲渡も取り消され、プエブラの半分はまたロサダ家の手に戻ります。1489年、ディエゴ・デ・ロサダの未亡人レオノールが、ベナベンテ伯ロドリゴ・ピメンテルと、ロサダ家が持つプエブラ半分とモンタマルタの所領を交換することで合意に達し、その娘、マリアの時に、ベナベンテ伯はようやくプエブラ全体を掌握することができました。

テラ川からお城を見上げる。
左から、Iglesia Ntra. Sra. de Azogue, Ermita de San Cayetano, Castillo
ベナベンテ伯爵の城 Castillo del Conde de Benavente

ベナベンテ4代目伯爵兼1代目公爵ロドリゴ・ピメンテルは、テラ川を見下ろす高台に、お城を建設します。ベナベンテにはロサダ家の時代にも塔があったことが記録されており、あるいは、現存するお城にある塔が、ロサダ家の古い塔を改築、増築したものかもしれません。

主塔(Torre de Homenaje)の入り口。左の円塔の中はまわり階段。

ほぼ正方形の強固な城壁の4隅に円塔を配し、その中央にどっしりとした矩形の塔が建っています。この塔は”El Macho”(雄)と呼ばれているのだそうです。お城の見学は、いつものように階段を登ったり下りたり。城内には、塔の壁にポッコリと張り出したトイレや、厨房の煙突など、生活臭あふれる要素も遺っています。また、中世の衣装の展示も充実していて、なかなか楽しいのです。

お城が完成して間もない1506年、スペイン王位についたフアナ女王とフェリペ美公夫妻がこのお城を訪れています。

その後、1887年、プエブラ・デ・サナブリア村がお城を買い取り、しばらくは、干し草倉庫、牢獄、鶏舎など、少々悲しい使われ方をしていましたが、修復を経て現在は一般に公開されています。

サン・カルロス城 Fuerte de San Carlos ― ポルトガルが築いた星形要塞

プエブラ・デ・サナブリアにはもう一つ、お城の跡があります。現在は小高い丘にしか見えませんが、お城から村を挟んで反対側の丘に、18世紀初頭にポルトガル軍が建設したお城の跡があります。星形要塞と呼ばれる形のお城で、日本の五稜郭のような形。スペインの星形要塞の分布を見ると、ハカやパンプローナなどフランス国境周辺と、プエブラ、シウダロドリーゴなどポルトガル国境沿いに集中しています。国境を越えてポルトガル側にも、アラメイダ、バレンサ等の星形要塞があります。

フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。

村を挟んで城と反対側にある丘の上、サン・カルロス城があった場所から見たプエブラ・デ・サナブリア。
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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 近世 星形要塞

参考WEB

ベナベンテ Benavente

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

お城として十分に強固な印象を与える建物ですが、さらに壮大なお城に複数あった塔のひとつに過ぎません。現在はパラドールとなっています。

オルビゴ川、エスラ川、テラ川が交わるベナベンテは、緑豊かな肥沃な地です。カスティージャとガリシアを結ぶ交通の要所でもあり、古くから人々が生活していました。ベナベンテにはフェルナンド2世(レオン王在位:1157-1188)のころから何らかの城塞があったことがわかっています。

高台にあるお城の横の広場から。オルビゴ川、テラ川が流れる方向。真夏でもこんなに緑。
ベナベンテ伯爵-公爵家―ピメンテル家

時は下って14世紀末、カスティージャ王エンリケ3世は、1398年、ポルトガルからカスティージャに亡命してきたフアン・アルフォンソ・ピメンテルアリハ・デル・インファンタード参照)に、ベナベンテの所領と伯爵位を与えました。

ベナベンテ伯爵となったフアン・アルフォンソですが、ベナベンテの人々には歓迎されなかったようです。2年後、ベナベンテの人々は王に対して領主、特に領主を取り巻くポルトガル人たちの専横的な振る舞いについて訴えていました。その後、2代目伯爵ロドリゴ・アロンソは、マジョルガ、ビジャロン(バジャドリード)などに領地を広げ、フランスへの外交使節団に加わるなど活躍、王族アロンソ・エンリケス(エンリケ2世の双子の弟ファドリケの子)の娘レオノールと結婚して王家とのつながりを強めるなど、着々と地位を固めていきます。

エンリケ3世を継いだフアン2世の治世で、2代目、3代目伯爵は何度か王と対立し、その度にベナベンテの城を接収されては返されたりもしていましたが、4代目伯爵でベナベンテ公爵位も授けられたロドリゴ・アロンソ・ピメンテルは、ポルティージョ、プエブラ・デ・サナブリア、ビアナ・デル・ボロなどにも所領を持ち、それぞれに城を建設。ベナベンテにも壮大な城塞宮殿を建設しました。1499年にロドリーゴが死去すると、建築に問題があったのか、城塞宮殿は土台から倒壊の危機にさらされます。ロドリゴの死後ベナベンテを継いだアロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、城塞宮殿の修復と改築を余儀なくされました。

ピメンテル家の城塞宮殿は、当時、この地を訪れた人物に「グラナダとセビージャの宮殿を除いて、スペインで並ぶものはない」とまで言わしめたほど。「正方形で、4隅に屈強な塔があり、周囲を堀で囲まれ、さらに強固な城壁に守られていた。内部には正方形の中庭があり…贅を尽くした装飾が施されていた」宮殿は、例えば、天井は美しい「アルテソナード」(ムデハルの影響が色濃い極彩色の格子天井)で彩られ、それを支える円柱には、アラバスター、大理石、ジャスパーなどが使われていました。また、城塞宮殿の近くには庭園があり、そこにはラクダ、ライオン、ゾウなどエキゾチックな動物たちが飼われていたとのこと。

この宮殿を訪れた人々の中には、スペイン王位に就いたばかりのフェリペ美公とフアナ女王夫妻(1502年、1506年)や、あのチェーザレ・ボルジア(1506年)がいます。カトリック王フェルナンドによりメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されていたチェーザレ・ボルジアは、フェルナンドと対立していたベナベンテ公爵の助けを借りて脱出、ナバラへ向かう途中に公爵の宮殿に立ち寄りました*。*ただし、ベナベンテ公爵の他の宮殿であったとの記述もあり。

トーレ・デル・カラコル Torre del caracol

この贅を尽くした城塞宮殿から唯一現存するのが「トーレ・デル・カラコル(カタツムリの塔、あるいは、螺旋階段の塔)」です。塔に施された紋章は、このアロンソ・ピメンテルと妻アナ・デ・ベラスコのもの。

19世紀、ベナベンテ城は大規模な火災に見舞われ、世紀の終わりごろには、トーレ・デル・カラコルを残し、城塞宮殿跡はすべて取り壊されてしまいました。現存する塔は20世紀中ごろに修復され、1971年に国営パラドールとなり、現在に至ります。現在、この塔には往時をしのばせる美しいアルテソナード(ムデハル様式の格子天井)がありますが、これは近くのサン・ロマン・デル・バジェ教会にあったもの。

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泊まれるお城 パラドール
Parador de Benavente
Paseo de la Mota, s/n 49600 Benavente Zamora
+34 980630300