プエブラ・デ・サナブリア Puebla de Sanabria

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

ポルトガル国境まで15kmほどに位置するプエブラ・デ・サナブリア。この村にはお城がふたつありました。村の東端、テラ川を見下ろして建つお城は16世初頭、ポルトガルに起源をもつ貴族ベナベンテ公爵により建てられたもの。村を挟んで反対側にあったお城は、18世紀初頭にポルトガルが建設した星形要塞。どちらもポルトガルが大いに関係しています。

入り口前の広場から。
ベナベンテ伯爵登場

プエブラ・デ・サナブリアの集落は古くから史料に現れており(509年)、1132年からはすでに何らかの城塞があったことが記録されています。ポルトガル国境から15km程度の位置にあるプエブラは、中世から常に対ポルトガル防衛最前線にあり、1273年にはアルフォンソ10世からフエロを与えられています。

14世紀、プエブラ・デ・サナブリアの領主はペドロ1世の側近フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケでしたが、彼の死後(おそらくペドロ1世の命により毒殺)、ペドロ1世がこれをフェルナンド・デ・カストロ(ペドロの愛妾フアナ・デ・カストロの兄弟)に譲渡。更に、ペドロは1356年に、フェルナンドにガリシアの領地を与える代わりに、プエブラをメンス・ロドリゲスに与えました。

その後、ペドロ1世とエンリケ2世のカスティージャ王位をめぐる争いが終結し、トラスタマラ朝が成立した後、フアン1世(1358-1390)は、内戦中の父エンリケ2世に対する忠誠に報いるため、プエブラを、当地の貴族ロサダ家のアルバル・バスケスに与えました。1451年、フアン2世の治世に、3代目ベナベンテ伯爵アロンソ・ピメンテルが、領主フアン・デ・ロサダの未亡人マヨール・デ・ポーラスから、プエブラの半分を購入。さらに、1465年、エンリケ4世から王位の簒奪を狙った異母弟アルフォンソが、プエブラのもう半分(これまではディエゴ・デ・ロサダのもの)を4代目ベナベンテ伯爵ロドリゴ・デ・ピメンテルに与えましたが、アルフォンソの死とともに、この譲渡は取り消されました。イサベル1世とフアナ・ラ・ベルトラネハによるカスティージャ王位継承戦争終結後、カトリック女王イサベル1世は、ポルトガルのアルフォンソ5世(フアナ側)に加担したディエゴ・デ・ロサダから所領を接収し、プエブラの残り半分をロドリゴ・ピメンテルに与えますが、1480年、ポルトガルとの停戦条約締結とともに、この譲渡も取り消され、プエブラの半分はまたロサダ家の手に戻ります。1489年、ディエゴ・デ・ロサダの未亡人レオノールが、ベナベンテ伯ロドリゴ・ピメンテルと、ロサダ家が持つプエブラ半分とモンタマルタの所領を交換することで合意に達し、その娘、マリアの時に、ベナベンテ伯はようやくプエブラ全体を掌握することができました。

テラ川からお城を見上げる。
左から、Iglesia Ntra. Sra. de Azogue, Ermita de San Cayetano, Castillo
ベナベンテ伯爵の城 Castillo del Conde de Benavente

ベナベンテ4代目伯爵兼1代目公爵ロドリゴ・ピメンテルは、テラ川を見下ろす高台に、お城を建設します。ベナベンテにはロサダ家の時代にも塔があったことが記録されており、あるいは、現存するお城にある塔が、ロサダ家の古い塔を改築、増築したものかもしれません。

主塔(Torre de Homenaje)の入り口。左の円塔の中はまわり階段。

ほぼ正方形の強固な城壁の4隅に円塔を配し、その中央にどっしりとした矩形の塔が建っています。この塔は”El Macho”(雄)と呼ばれているのだそうです。お城の見学は、いつものように階段を登ったり下りたり。城内には、塔の壁にポッコリと張り出したトイレや、厨房の煙突など、生活臭あふれる要素も遺っています。また、中世の衣装の展示も充実していて、なかなか楽しいのです。

お城が完成して間もない1506年、スペイン王位についたフアナ女王とフェリペ美公夫妻がこのお城を訪れています。

その後、1887年、プエブラ・デ・サナブリア村がお城を買い取り、しばらくは、干し草倉庫、牢獄、鶏舎など、少々悲しい使われ方をしていましたが、修復を経て現在は一般に公開されています。

サン・カルロス城 Fuerte de San Carlos ― ポルトガルが築いた星形要塞

プエブラ・デ・サナブリアにはもう一つ、お城の跡があります。現在は小高い丘にしか見えませんが、お城から村を挟んで反対側の丘に、18世紀初頭にポルトガル軍が建設したお城の跡があります。星形要塞と呼ばれる形のお城で、日本の五稜郭のような形。スペインの星形要塞の分布を見ると、ハカやパンプローナなどフランス国境周辺と、プエブラ、シウダロドリーゴなどポルトガル国境沿いに集中しています。国境を越えてポルトガル側にも、アラメイダ、バレンサ等の星形要塞があります。

フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。

村を挟んで城と反対側にある丘の上、サン・カルロス城があった場所から見たプエブラ・デ・サナブリア。
検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 近世 星形要塞

参考WEB

ベナベンテ Benavente

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

お城として十分に強固な印象を与える建物ですが、さらに壮大なお城に複数あった塔のひとつに過ぎません。現在はパラドールとなっています。

オルビゴ川、エスラ川、テラ川が交わるベナベンテは、緑豊かな肥沃な地です。カスティージャとガリシアを結ぶ交通の要所でもあり、古くから人々が生活していました。ベナベンテにはフェルナンド2世(レオン王在位:1157-1188)のころから何らかの城塞があったことがわかっています。

高台にあるお城の横の広場から。オルビゴ川、テラ川が流れる方向。真夏でもこんなに緑。
ベナベンテ伯爵-公爵家―ピメンテル家

時は下って14世紀末、カスティージャ王エンリケ3世は、1398年、ポルトガルからカスティージャに亡命してきたフアン・アルフォンソ・ピメンテルアリハ・デル・インファンタード参照)に、ベナベンテの所領と伯爵位を与えました。

ベナベンテ伯爵となったフアン・アルフォンソですが、ベナベンテの人々には歓迎されなかったようです。2年後、ベナベンテの人々は王に対して領主、特に領主を取り巻くポルトガル人たちの専横的な振る舞いについて訴えていました。その後、2代目伯爵ロドリゴ・アロンソは、マジョルガ、ビジャロン(バジャドリード)などに領地を広げ、フランスへの外交使節団に加わるなど活躍、王族アロンソ・エンリケス(エンリケ2世の双子の弟ファドリケの子)の娘レオノールと結婚して王家とのつながりを強めるなど、着々と地位を固めていきます。

エンリケ3世を継いだフアン2世の治世で、2代目、3代目伯爵は何度か王と対立し、その度にベナベンテの城を接収されては返されたりもしていましたが、4代目伯爵でベナベンテ公爵位も授けられたロドリゴ・アロンソ・ピメンテルは、ポルティージョ、プエブラ・デ・サナブリア、ビアナ・デル・ボロなどにも所領を持ち、それぞれに城を建設。ベナベンテにも壮大な城塞宮殿を建設しました。1499年にロドリーゴが死去すると、建築に問題があったのか、城塞宮殿は土台から倒壊の危機にさらされます。ロドリゴの死後ベナベンテを継いだアロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、城塞宮殿の修復と改築を余儀なくされました。

ピメンテル家の城塞宮殿は、当時、この地を訪れた人物に「グラナダとセビージャの宮殿を除いて、スペインで並ぶものはない」とまで言わしめたほど。「正方形で、4隅に屈強な塔があり、周囲を堀で囲まれ、さらに強固な城壁に守られていた。内部には正方形の中庭があり…贅を尽くした装飾が施されていた」宮殿は、例えば、天井は美しい「アルテソナード」(ムデハルの影響が色濃い極彩色の格子天井)で彩られ、それを支える円柱には、アラバスター、大理石、ジャスパーなどが使われていました。また、城塞宮殿の近くには庭園があり、そこにはラクダ、ライオン、ゾウなどエキゾチックな動物たちが飼われていたとのこと。

この宮殿を訪れた人々の中には、スペイン王位に就いたばかりのフェリペ美公とフアナ女王夫妻(1502年、1506年)や、あのチェーザレ・ボルジア(1506年)がいます。カトリック王フェルナンドによりメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されていたチェーザレ・ボルジアは、フェルナンドと対立していたベナベンテ公爵の助けを借りて脱出、ナバラへ向かう途中に公爵の宮殿に立ち寄りました*。*ただし、ベナベンテ公爵の他の宮殿であったとの記述もあり。

トーレ・デル・カラコル Torre del caracol

この贅を尽くした城塞宮殿から唯一現存するのが「トーレ・デル・カラコル(カタツムリの塔、あるいは、螺旋階段の塔)」です。塔に施された紋章は、このアロンソ・ピメンテルと妻アナ・デ・ベラスコのもの。

19世紀、ベナベンテ城は大規模な火災に見舞われ、世紀の終わりごろには、トーレ・デル・カラコルを残し、城塞宮殿跡はすべて取り壊されてしまいました。現存する塔は20世紀中ごろに修復され、1971年に国営パラドールとなり、現在に至ります。現在、この塔には往時をしのばせる美しいアルテソナード(ムデハル様式の格子天井)がありますが、これは近くのサン・ロマン・デル・バジェ教会にあったもの。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期

WEB
泊まれるお城 パラドール
Parador de Benavente
Paseo de la Mota, s/n 49600 Benavente Zamora
+34 980630300

ルビアンのコルテージョ-ドス-ロボス (狼罠) Lubian, Cortello dos Lobos

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

サモラ県北部ルビアンという村に、昔ながらの狼の罠があるということで、見に行ってきました。

ガリシアとの州境まで8km、ポルトガル国境まで18kmの場所にあるルビアンは、山深い地形も相まって、カスティージャよりもガリシアとの行き来が盛んだったようです。コルテージョ・ドス・ロボスもガリシア語。コルテージョ(Cortello)は、カスティーリャ語の”Corral”。つまり「獣を追い込む柵囲い」という意味。Lobosはオオカミです。

ルビアンの村から500mの山登り。草むらの向こうに、目指す建造物が見えてきました。

この辺りは昔からオオカミの生息地であり、現在もたびたび家畜が被害にあっています。しかし、この建造物がいつ造られたのかは、まったく記録がないため、わからないとのこと。おそらく何世紀も前に造られたものと推測されてはいますが…。近年修復され、現在の姿になりました。

オオカミを生け捕りにするために造られた「コルテージョ」は、急勾配の山の斜面に建設された円形の建築物です。壁は黒いスレート材を積み重ねて造ってあり、屋根はありません。入口は1つだけ。壁の高さは3メートルほどで、直径約30m。斜面の下のほうにあたる部分は外からも壁が見えますが、斜面の上にあたる部分の壁は半分が地面に埋まり、斜面の上の方から見ると地面にぽっかりと穴があいた感じです。

急勾配の斜面に埋め込まれたような円形の建物

中央の現在は木が茂っている場所に、ヤギや羊などオオカミの餌になりそうな動物を繋いでおき、オオカミが獲物につられて穴に飛び込んでしまうと、もう出ることはできません。壁に高さがあることはもちろんですが、上部の石が内側にせり出すように重ねられているため、よじ登ることは不可能です。

内側にせり出すように造られた壁
唯一の入り口

罠にかかったオオカミは、すぐに捕らえられたことに気づき逃げようと躍起になるため、囮となった家畜を食べることはあまりなかったとか。家畜が食べられてしまった場合は、家畜の提供者に村が弁償したのだそうです。オオカミが罠にかかったことがわかると、若い男性がコルテージョに入ってオオカミを捕まえ、金属製の口輪をつけて村まで連れて行きました。その間、村人たちはオオカミに向かって悪態をついたりしながら、行列に参加していました。

カスティージャ北部からポルトガル北部、ガリシア、アストゥリアスやカンタブリアにかけて、様々な形のオオカミ罠が遺っています。呼び名はいろいろ。ルビアンから北に車で約30分の位置にあるバルハコバ(Barjacoba)にも、ルビアンとよく似たオオカミ罠があるそうです。こちらは”Corro dos lobos”と呼ばれます。

WEB
検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 いろいろ

ビジャロンソ Villalonso

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

15世紀後半にカスティージャで流行ったデザインのお城です。ティエドラ城の塔の上からすぐ近くに見えます。

バジャドリード派

カスティージャ王エンリケ4世(在位1454-1475)がメディナ・デル・カンポやポルティージョの城の改築を行うと、それに倣って、多くの貴族が自分の領地に城を建設、あるいは既存の城を改築しました。このころにバジャドリードを中心に建設された城は皆、ほぼ正方形の城壁に守られ、その一角に正方形の主塔が建つという、ビジャロンソの城によく似たデザイン。これらの城はバジャドリード派と呼ばれます。ただし、戦いにはすでに大砲が使われており、華奢な塔は大砲を前に防衛施設の役にはあまり立たなくなっていました(参照:フエンテス・デ・バルデペロ)。城はむしろ所領の人々に対して権力を誇示するためのものとなっていきます。

騎士団

ビジャロンソは中世を通じて、様々な手に委ねられました。15世紀初頭、アルカンタラ騎士団*の手にあったビジャロンソを、アロンソ・ペレス・デ・ビベロが購入。1470年に彼がフアン・デ・ウジョアに、他の領地と交換する形で譲渡しました。フアンは、周囲の領地とともにマヨラスゴ(長子が一括して相続する財産)を創設し、現存する城を建設。この場所にはおそらくアルカンタラ騎士団の要塞があったものと推測されます。

カスティージャ王位継承戦争 ― 未亡人マリア・サルミエント

1474年、エンリケ4世が死去すると、カスティージャ王位をめぐって王の異母妹イサベル1世と庶子フアナ(ラ・ベルトラネハ)の間で内戦が勃発します。フアン・デ・ウジョアはフアナ側を支持。この時、フアンはトーロ(サモラ県)のアルカサルの城塞主でした。この内戦の中、王位の行方を決定づけたのが1476年の「トーロの戦い」です。カスティージャに進軍していたポルトガル王アルフンソ5世軍(寡夫となっていたアルフォンソ5世―43歳―は、14歳のフアナと婚約しカスティージャ王位を狙う)はイサベル1世の夫フェルナンド率いる軍に敗れるも、ポルトガル王太子ジョアン軍はカスティージャ軍を殲滅…。多くの戦死者を出した戦いでしたが、はっきりとした勝者はないまま戦闘は終わりました。しかし、この戦い以降、フアナ派はカスティージャ内での支持を失って行き(これには、トーロの戦い後、フェルナンドが国内外にカスティージャ勝利を知らせる使者を送ったことも影響していると言われる)、翌年のアルカソヴァ条約で内戦は終結、女王イサベル1世の地位が固まりました。

この戦いの初期に、トーロ城塞主だったフアン・デ・ウジョアは戦死してしまいました。未亡人となった妻のマリア・サルミエントはしばらくトーロで抵抗を続けます。結局、彼女はトーロはもちろん、モタ・デ・マルケスなど複数の所領をイサベル王女に譲渡せざるを得なくなりますが、交渉のすえ、なんとかビジャロンソの保有は許されて、トーロの城を明け渡しました。

コムニダーデスの乱

さらにフアンとマリアの子ディエゴ・デ・ウジョアも、16世紀のコムニダーデスの乱(参照:フエンテス・デ・バルデペロ)で蜂起軍に加担(また負け組に加担してしまった…)。反乱終結後にはあわや死刑!になるところでしたが、1万ドゥカドを払って死刑を回避し、ビジャロンソも含め財産もすべて取り戻しました。

わずかだが外壁が遺る
ビジャロンソ城 Castillo de Villalonso

城を囲んでいた堀はほぼ埋まり、大砲の使用が考慮された大きな鋸壁を有する外側の城壁は(おそらく、前述のカスティージャ王位継承戦争の際に建設された)ほんの一部が遺っているだけですが、主塔をはじめ、城の本体はよく保存されています。ほぼ正方形の城壁の4隅に円塔、東側の城壁の中央に堂々たる主塔が建っています。城への入り口は主塔の左側。入口の上にある二つの紋章は、ウジョア家(右)とサルミエント家のものです。主塔への入り口は中庭に面した2階に開いています。

1970年代には、ショーン・コネリーとオードリ・ヘップバーン主演『ロビンとマリアン』など、たびたび映画の撮影に使われていました。

現在、この城は個人が所有しています。1980年代にオスナ公爵家から城を買った現在の所有者が修復し、一般に公開中(ただし、夏季日曜日午前中のみ 2021年現在)。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 バジャドリード派