ラ・アラメダ城―マドリード El Castillo de la Alameda-Madrid

マドリード州

マドリード市内、オスーナ公爵家の別荘跡エル・カプリーチョ庭園(Jardín de El Capricho de Alameda de Osuna)のすぐ近く、住宅街に遺るこじんまりとした城跡です。15世紀に建設されたお城が、16世紀に邸宅に。この改築時に、お堀がルネサンス庭園になりました。

お城の下からは、紀元前2000年ころの集落跡が発掘されています。

お城への入り口付近から。
築城はメンドサ家―マンサナレス・エル・レアル

15世紀、この城を建設したのは、ラ・アラメダやバラハスを所領としていたディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサ(1367-1404/マンサナレス・エル・レアル参照)と考えられています。1400年ごろのこと。ディエゴは、2度の結婚のほか、いとこのメンシア・デ・アヤラと恋人関係にあり、遺言で、彼女にこの二つの所領を与えました。ディエゴの死後、メンシアは1406年にルイ・デ・サパタと結婚し、こうして、ラ・アラメダ城もサパタ家の所領に。サパタ家はアラゴンに起源をもつ貴族です。16世紀になると、フェリペ2世がフランシスコ・サパタ・デ・シスネロス(母はシスネロス大司教―カトリック両王の時代に政治的・宗教的に大きな影響力を持った―の姪マリア・シスネロス)にバラハス伯爵の称号を与えました。高い地位を得たフランシスコは、ラ・アラメダ城を宮殿風に改築します。

お堀はルネサンス庭園

この改築の目玉は、城を囲むお堀。こじんまりとしたお城の割に堀は大きく、最大幅12メートル、深さ6メートルにも及びます。そして、目を引くのは、バットレス(控え壁)が連なる石造りの壁。これは珍しいお堀だな~と、思っていると案の定、もともとは下に行くほど厚みを増すもっと武骨な壁だったものが、16世紀に現在のように改築されていたのです。お城を宮殿に改築するにあたり、堀のスペースを広げるために外側の壁の厚みを削ってほぼ垂直にし、石をモルタルで固めた壁をバットレスで補強した現在の姿になりました。当時はさらに、バットレスの上にアーチが並んでいたと考えられています。

お堀。左側の壁はバットレス(控え壁)で補強されている。

こうして拡げられた堀は、宮殿を取り巻く庭園に。城本体の北東面に庭園への出入り口が開けられ、堀は噴水や花壇で飾られました。発掘調査では、噴水や花壇の跡に加えて、杉やくるみなどさまざまな樹木、バラ、チューリップ、ハスなどの花々のほか、キャベツ、豆類などの花粉や種も確認されており、実用的な役割も果たしていたことがわかっています。宮殿の庭園はこの堀だけではなく、城の南側、現在は住宅地となっているところには、大きな池もあったとのこと。

この城の建設には全体的に、この辺りで豊富に産出されたシレックス(硅石、フリント)石が使われており、その透明感のある白い色は、きっと庭園に上品な華やかさを醸していたことでしょう。

小さいお城

お城の本体は正方形で、西の1画に主塔、その対となる東の1画に円塔があります。その周りを4隅に円塔のある城壁が巡り、さらにその周りに前述の堀が巡っています。現在、遺っているのは、前述の堀と、お城本体の東から南の壁のみ。この壁を内側から見ると、かまどと煙突の跡が見えます。あとは、土台が遺っているので、大まかな造りを想像してみるのも楽しいです。

内戦の爪痕

お城の東側には内戦時(1936-39)のトーチカが保存されています。また、お城の壁にも内戦時に開けられた銃眼がいくつもあり、地下には避難壕が遺っています。

北アフリカでの蜂起後にマドリード征服を狙ったフランコ軍は、北から攻めるもマンサナレス川のあたりで足止めされていたため、バルセロナやバレンシアからマドリードへの物資の供給路を断ち切るため、南からマドリードへの進軍を試みました。こうして起こったのが、1936年2月ハラーマの戦い(マドリードから南南東約35kmほど)。内戦きっての激戦のひとつとして知られ、死者はフランコの反乱軍、共和国軍、両軍合わせて15000人に達したと言われています。この時、共和国軍下にあったこの地区には様々な軍事施設がつくられ、上記のトーチカなどのほか、近くのエル・カプリチョ宮殿にも避難壕が建設されました。こちらも見学が可能です。

参照WEB

モンテレイ Monterrey

ガリシア州オウレンセ県

プエブラ・デ・サナブリアからオウレンセに向かう途中、何キロも先から山の上にお城が見えてきます。中世からあった城塞が時代とともに増改築され、宮殿、教会、施療院などのある要塞都市といった様相となりました。

上の写真:最上部、一重目の城壁の中に、左から「モンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔 (Palacio del Conde de Monterrey con la Torre de las Damas)」、「サンタ・マリア・デ・グラシア教会 (Iglesia de Santa María de Gracia)」、奥に城塞の主塔(Torre de Homenaje) 。手前に2重目の城壁、その下に3重目の城壁が見える。

最上部にある城壁。奥にモンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔。
「王の山」モンテレイ

モンテレイが歴史に登場するのは10世紀、当時の名前は「Castrum Baroneceli」で、すでに何らかの要塞があったようです。この地方の有力者エルメネヒルド・グティエレスという人物の所領でした。エルメネヒルドの孫で後に聖別されることになるロセンドが10世紀、セラノバ(モンテレイから西に60kmほど)に修道院を建立すると、この地は修道院の所領に。彼らはローマ教皇庁も巻き込んで、この地が王領となり城塞をいただくのを阻もうとします。モンテレイは、カスティージャとガリシアをつなぐ交通の要所にあるうえ、12世紀にカスティージャから独立したポルトガルとの国境から近かったため、王たちは植民をし教会を建て…既成事実を作りながら、13世紀になってようやく、修道院領から独立した王の山(Monte de rey)「モンテレイ」を誕生させたのでした。その間にも、ポルトガル国境付近には、城塞や塔による防衛網が建設されていました。

ビエドマ家登場

14世紀になると、モンテレイの歴史にビエドマ家が登場。アルフォンソ11世の家臣であり、ガリシア前線総督。レモス伯爵(ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ)の宮宰(Mayordomo)でもあったルイ・パエス・デ・ビエドマがモンテレイの城塞主に。この人物が、モンテレイの城の建設にかかわっていたと考えられいます。1340年ごろの史料によると、王から複数の要塞の領有(Tenencia)を賜り、その中に「モンテレイの塔」も含まれているとのこと。

カスティージャ内戦…ちょっと長くなってしまいます…

14世紀、ペドロ1世とエンリケ2世の間の王位をめぐる内戦にも、モンテレイはドラマチックに登場します。ルイ・パエスを継いだフアン・ロドリゲス・デ・ビエドマははじめ、ペドロ1世に忠実な家臣でした。しかし、内戦終盤になるとエンリケ2世側に寝返り、これがガリシアにおけるペドロ1世派の抵抗が潰えた一因となります。

1366年、王国のコントロールを失ったペドロ1世は、ポルトガルのチャベスからモンテレイへ。ペドロ1世はここで、内戦を通じてペドロ1世に忠実だったレモス伯爵フェルナンド・デ・カストロに会い、ナバラ王やランカスター公に救援を求める手紙を送ると、コルーニャから海路バイヨンヌへ向かいます。他方、フェルナンド・デ・カストロはガリシアでエンリケ派に対する反乱を起こします。ガリシアの貴族の多くがフェルナンド・デ・カストロの下に結集しますが、モンテレイのビエドマはエンリケ支持を保ち、ペドロ派の攻撃に屈しませんでした。この時は、ペドロ1世とランカスター公の連合軍進攻の知らせを受けたエンリケ2世はガリシアを捨て、ナヘラの戦いでの敗戦を経て、一時期アラゴンに避難しますが…。

しかし、結局、1369年年にモンティエルでエンリケ2世がペドロ1世を殺し内戦は終結します。これを受けて、カスティージャ王位を狙うポルトガルのフェルナンド1世はガリシアに進軍。この軍にフェルナンド・デ・カストロや最後までペドロ1世に忠実だったメン・ロドリゲス・デ・サナブリアも加勢し、モンテレイを奪回すると、1371年まで、モンテレイはポルトガルが堅持していました。1371年、カスティージャとポルトガルが和平を結び、ポルトガル王フェルナンド1世とエンリケ2世の娘レオノールの婚約が成立。モンテレイはレオノールの持参金(Dote)に含まれる予定でした。しかし、この婚約は破棄され、和平も決裂。モンテレイはエンリケ2世の手に渡ります。メン・ロドリゲス等はしばらくガリシアで抵抗を続けますが、結局、西葡和平でペドロ派は国外退去を言い渡され、バイヨンヌ、あるいはポルトガルへ。

この後は、いつもの通り…フアン1世がディエゴ・ロペス・デ・スニガにモンテレイを授け、その子にモンテレイ子爵の称号を与えます。その後、カトリック両王がサンチョ・サンチェス・デ・ウジョアにモンテレイ伯爵の称号を授けました。モンテレイは婚姻関係により、スニガ家、ウジョア家、アセベド家…、と領主が変わっていきました。

最上部の城塞都市

城塞で突出するのは高さ22mの主塔(Torre de Homenaje)。「ドン・サンチョの塔(Torre de Don Sancho)」とも呼ばれます。入口は2階の高さにあり、入るには跳ね橋が必要でした。1482年、1代目モンテレイ伯爵サンチョ・サンチェス・デ・ウジョアによる建設(入口の上部の石にその旨が記されています)。ではあるのですが、大部分は、モンテレイから南に7kmの場所にあった別の城塞から移築されたものだそうです。この部分では、切石に刻まれた無数のシンボルも目を引きます。これは建設時に石工たちが記したサイン(仕事の対価を計算するのに必要でした)。

もう一つの塔、宮殿にある「貴婦人の塔」は、14世紀に建設された古い要塞の塔が、16世紀末、伯爵宮殿建設の際にここに取り込まれたものと考えられています。その伯爵宮殿は16世紀から17世紀に建設されたルネサンス宮殿。華奢な柱に支えられたアーチが連なる繊細で優雅なファサードが印象的です。宮殿の西側は、城壁の一部となっています。

武器の広場から見た伯爵宮殿

サンタ・マリア・デ・グラシア教会は、13世紀の建設。アルフォンソ10世の庇護のもとセラノバの修道院が建立したもの。ロマネスクのシンプルな建物ですが、豊かな装飾が施されています。ティンパヌムや柱頭などの彫刻は造詣がかわいらしい💓

後陣部分の窓は、様々なシンボルで飾られており、中にはダビデの星(六芒星)もあります。モンテレイには中世にユダヤ人共同体が存在し、ユダヤ人墓地も発掘されています。

教会内では、花崗岩に彫刻されたロマネスクのレタブロ(祭壇背後の飾り壁)が秀逸。キリストの受難を表しています。(私は見ることができませんでした😢 写真は下のWEBで。)

対ポルトガル

16世紀末、フェリペ2世がポルトガル王位を継いだため、しばらくは西葡国境は消滅していましたが、1640年、カタルーニャに次いで、ポルトガルでもカスティージャに対する反乱が起こります。

モンテレイでは、フェリペ4世が城の近代化を命じ、中世の城壁の南北面に稜堡(死角をなくすため城壁から突出して建設された部分)が増築され、周囲に大砲用の銃眼のついた城壁を建設。これら城全体を囲んで、さらに外側に稜堡付きの城壁が巡らされました。稜堡に「1664年、フェリペ4世の治世に建設」と彫られています。

広大な敷地内にはイエズス会の修道院とフランシスコ会の修道院がありましたが、どちらも18世紀から19世紀に放棄され、建物はベリンの町の道路などの建設素材として使われました。

メキシコのモンテレイ

メキシコ北部の町モンテレイの名前の由来は、このモンテレイ。16世紀、モンテレイで生まれ育った(後述のイエズス会の学校で教育を受けた)第5代モンテレイ伯爵ガスパール・スニガ・アセベドは、フェリペ2世によりヌエバ・エスパーニャ副王に任命され、メキシコに赴きました。当時スペインはメキシコの北へと支配地を広げており、新しく建設した町を副王にちなみ「モンテレイ」と名付けたのでした。

2つのパラドール

① 2015年、伯爵宮殿はパラドールとしてオープンしました。ガリシア州がパラドールに75年間、使用権を譲渡する形でオープンにこぎつけた宿泊施設でしたが、もともとお城は文化施設として利用される予定だったことから、お城のあるベリンの住民からは反対の声が上がり、係争の末、パラドールは一時閉館に追い込まれました。

② モンテレイ城の向かいの丘には、1967年にオープンしたベリンのパラドールがあります。この場所には、16世紀から1768年(イエズス会追放令の年)までイエズス会の学校がありました。1590年ごろ在校生は1200人にのぼったとの記録もあるそうです。ただし、当時の建物は残っておらず、パラドールがあるのは後年に建設された、ガリシアで「パソ」と呼ばれる邸宅風の建物。緑豊かなガリシアの風景の中に建つお城を眺めながら過ごすのも、一興かも。(年に数回の閉館期間があるのでご注意を)

① Parador Castillo de Monterrei
Castillo de Monterrei, s/n 32618 Monterrei (Ourense)
+34 988 02 92 30
monterrei@parador.es

② Parador de Verín
Subida a Monterrei, s/n 32600 Verín (Ourense)
+34 988410075
verin@parador.es
年に数回、閉館期間があるのでご注意を。
WEB

プエブラ・デ・サナブリア Puebla de Sanabria

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

ポルトガル国境まで15kmほどに位置するプエブラ・デ・サナブリア。この村にはお城がふたつありました。村の東端、テラ川を見下ろして建つお城は16世初頭、ポルトガルに起源をもつ貴族ベナベンテ公爵により建てられたもの。村を挟んで反対側にあったお城は、18世紀初頭にポルトガルが建設した星形要塞。どちらもポルトガルが大いに関係しています。

入り口前の広場から。
ベナベンテ伯爵登場

プエブラ・デ・サナブリアの集落は古くから史料に現れており(509年)、1132年からはすでに何らかの城塞があったことが記録されています。ポルトガル国境から15km程度の位置にあるプエブラは、中世から常に対ポルトガル防衛最前線にあり、1273年にはアルフォンソ10世からフエロを与えられています。

14世紀、プエブラ・デ・サナブリアの領主はペドロ1世の側近フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケでしたが、彼の死後(おそらくペドロ1世の命により毒殺)、ペドロ1世がこれをフェルナンド・デ・カストロ(ペドロの愛妾フアナ・デ・カストロの兄弟)に譲渡。更に、ペドロは1356年に、フェルナンドにガリシアの領地を与える代わりに、プエブラをメンス・ロドリゲスに与えました。

その後、ペドロ1世とエンリケ2世のカスティージャ王位をめぐる争いが終結し、トラスタマラ朝が成立した後、フアン1世(1358-1390)は、内戦中の父エンリケ2世に対する忠誠に報いるため、プエブラを、当地の貴族ロサダ家のアルバル・バスケスに与えました。1451年、フアン2世の治世に、3代目ベナベンテ伯爵アロンソ・ピメンテルが、領主フアン・デ・ロサダの未亡人マヨール・デ・ポーラスから、プエブラの半分を購入。さらに、1465年、エンリケ4世から王位の簒奪を狙った異母弟アルフォンソが、プエブラのもう半分(これまではディエゴ・デ・ロサダのもの)を4代目ベナベンテ伯爵ロドリゴ・デ・ピメンテルに与えましたが、アルフォンソの死とともに、この譲渡は取り消されました。イサベル1世とフアナ・ラ・ベルトラネハによるカスティージャ王位継承戦争終結後、カトリック女王イサベル1世は、ポルトガルのアルフォンソ5世(フアナ側)に加担したディエゴ・デ・ロサダから所領を接収し、プエブラの残り半分をロドリゴ・ピメンテルに与えますが、1480年、ポルトガルとの停戦条約締結とともに、この譲渡も取り消され、プエブラの半分はまたロサダ家の手に戻ります。1489年、ディエゴ・デ・ロサダの未亡人レオノールが、ベナベンテ伯ロドリゴ・ピメンテルと、ロサダ家が持つプエブラ半分とモンタマルタの所領を交換することで合意に達し、その娘、マリアの時に、ベナベンテ伯はようやくプエブラ全体を掌握することができました。

テラ川からお城を見上げる。
左から、Iglesia Ntra. Sra. de Azogue, Ermita de San Cayetano, Castillo
ベナベンテ伯爵の城 Castillo del Conde de Benavente

ベナベンテ4代目伯爵兼1代目公爵ロドリゴ・ピメンテルは、テラ川を見下ろす高台に、お城を建設します。ベナベンテにはロサダ家の時代にも塔があったことが記録されており、あるいは、現存するお城にある塔が、ロサダ家の古い塔を改築、増築したものかもしれません。

主塔(Torre de Homenaje)の入り口。左の円塔の中はまわり階段。

ほぼ正方形の強固な城壁の4隅に円塔を配し、その中央にどっしりとした矩形の塔が建っています。この塔は”El Macho”(雄)と呼ばれているのだそうです。お城の見学は、いつものように階段を登ったり下りたり。城内には、塔の壁にポッコリと張り出したトイレや、厨房の煙突など、生活臭あふれる要素も遺っています。また、中世の衣装の展示も充実していて、なかなか楽しいのです。

お城が完成して間もない1506年、スペイン王位についたフアナ女王とフェリペ美公夫妻がこのお城を訪れています。

その後、1887年、プエブラ・デ・サナブリア村がお城を買い取り、しばらくは、干し草倉庫、牢獄、鶏舎など、少々悲しい使われ方をしていましたが、修復を経て現在は一般に公開されています。

サン・カルロス城 Fuerte de San Carlos ― ポルトガルが築いた星形要塞

プエブラ・デ・サナブリアにはもう一つ、お城の跡があります。現在は小高い丘にしか見えませんが、お城から村を挟んで反対側の丘に、18世紀初頭にポルトガル軍が建設したお城の跡があります。星形要塞と呼ばれる形のお城で、日本の五稜郭のような形。スペインの星形要塞の分布を見ると、ハカやパンプローナなどフランス国境周辺と、プエブラ、シウダロドリーゴなどポルトガル国境沿いに集中しています。国境を越えてポルトガル側にも、アラメイダ、バレンサ等の星形要塞があります。

フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。

村を挟んで城と反対側にある丘の上、サン・カルロス城があった場所から見たプエブラ・デ・サナブリア。
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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 近世 星形要塞

参考WEB