カラトラバ・ラ・ヌエバ Calatrava la Nueva

カスティージャ・ラ・マンチャ州シウダ・レアル県

カラトラバ騎士団の要塞修道院。1212年のナバス・デ・トロサの戦いの直後に建設されました。要塞の壮大さもさることながら、教会のファサードを彩る赤い火山岩のバラ窓が圧巻!

カラトラバとは

シウダ・レアルの近く、カリオン・デ・カラトラバ村から北に5kmほど行くと、カラトラバ・ラ・ビエハ(旧カラトラバ)という要塞都市の跡があります。史料に初めて現れるのは8世紀の終わり、イスラム勢力がイベリア半島に上陸してからほどなくして建設されたようです。カラトラバの語源はアラビア語の「カルアト・ラバーフ」。「カルアト」はスペインの地名によく出てくる「アルカラ(=アル・カルアト)」の語源にもなっており、要塞、お城の意味。「カルアト・ラバーフ」はラバーフ要塞といったところでしょうか。ラバーフは人名から来た呼称と考えられています。つまり、異教徒と戦うためにできた騎士団の名称が、その異教徒の言語を起源に持っていた、というわけです。

カラトラバ騎士団の誕生

1085年、カスティージャ王アルフォンソ6世がトレドを征服すると、旧カラトラバをはじめこの地方の要塞はカスティージャ王国が支配。しかし、すぐにモロッコから上陸したムラービト朝に再征服されてしまいます。12世紀半ば、アルフォンソ7世がこの地方を再び占領。1150年、旧カラトラバ防衛のために、王はこの要塞をテンプル騎士団に与えました。ところが、イスラム勢力の脅威は衰えるどころか増すばかり。またもやモロッコから上陸したムワッヒド軍の勢いを前に、旧カラトラバの防衛は不可能と考えたテンプル騎士団は、これをアルフォンソ7世を継いだサンチョ3世に返還しました。

旧カラトラバを失うと、トレドが危険にさらされることになります。サンチョ3世は、旧カラトラバを守る気概のある者にこの要塞を与えることを決め、貴族たちを集め希望者を募りました。ここで手を挙げたのが、シトー会に属するサンタ・マリア・デ・フィテロ修道院(ナバラ)の修道長ライムンドとディエゴ・ベラスケスという名の修道僧でした。

ライムンドとベラスケスは、サンチョ3世から旧カラトラバをもらい受け、大勢のシトー会修道士を伴って、旧カラトラバへ。その数、2万人ともいわれます。この大軍の勢いのおかげで、当面は旧カラトラバを死守。しかし、ディエゴ・ベラスケスが死去すると、修道士と騎士からなるグループは求心力を失い、修道士たちはシルエロスの修道院へと去っていきました。後に残った騎士たちは、1164年、初代総長にガルシアなる人物を選出し、こうして、カラトラバ騎士団が誕生。

ところが、1195年、ムワッヒド軍はアルフォンソ8世のカスティージャ軍をアラルコスで破ると、その勢いで旧カラトラバも占拠してしまいます。カラトラバの騎士たちは、サルバティエラ(カラトラバ・ラ・ヌエバのすぐ近く。お城からも見えます)を占拠してここに拠点を置き、しばらくは「サルバティエラ騎士団」と名乗っていました。イスラム勢力支配地で孤軍奮闘していたキリスト教徒の牙城サルバティエラですが、1211年、51日間の包囲戦の末ムワッヒド軍に降伏。翌年のナバス・デ・トロサ以降も、サルバティエラはしばらくイスラム教勢力下にありました。カスティージャ軍による再征服は1213から1215年のこと。

カラトラバ・ラ・ヌエバの要塞修道院

現在、カラトラバ・ラ・ヌエバと呼ばれる場所には、その前にドゥエニャス城という要塞があり、それはヒロン家の所領でした。1197年、ロドリゴ・グティエレス・ヒロンが、その半分をカラトラバ騎士団に寄進し、のちに、彼らの子供たちが残る半分を騎士団に売却。1201年にアルフォンソ8世が、カラトラバ・ラ・ヌエバに対する騎士団の権利を承認し、この地はカラトラバ騎士団の所領となった。という説が有力ですが…ロドリゴがドゥエニャス城をカラトラバ騎士団に寄進したことは確からしいのですが、そのドゥエニャス城が現在のカラトラバ・ラ・ヌエバにあったのかどうか、には異論があるようです。

1212年、有名なナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教諸国の連合軍がムワッヒド軍に勝ち、以降、シエラ・モレナ以北のキリスト教勢力の覇権が確立します。現在のカラトラバ・ラ・ヌエバの要塞―修道院は、この戦いの直後、2013年から建設が始まったものと考えられています。建設作業には、ナバスで捕らえられたイスラム教兵士たちが使われたとのこと。

二重、場所によっては三重の城壁に囲まれた広大な敷地には、中央のひときわ高い場所にお城、その隣りの一段低いところに教会や回廊を含む修道院、お城の周りに粉引場や台所など生活施設、少し離れて宿泊施設があり、まさに要塞修道院という様相。また、城塞に囲まれた広大な敷地には、家や通りのある村のような場所があり、そこに騎士や修道僧たちが住んでいました。ただし、その後すぐに、アルマグロ(Almagro)に騎士団長の館が置かれ、騎士団全体の政務はこちらで行われていました。

お城は狭い空間に塔が並び、塔の中のレコド(かぎ状に曲がった通路)や階段を通りながら、4階建ての屋上まで登ることができます。

教会はロマネスクからゴシックの過渡期の建設。ファサードには、まるでお城の小塔のようなバットレス(控え壁)に挟まれて、入り口の上に赤い火山岩で造られた大きなバラ窓があります。これは15世紀末から16世紀初頭のもの。1755年のリスボン地震の際に残念ながらステンドグラスは割れてしまいましたが、この地震で教会本体が倒壊しなかったのは、火山岩が使われていたため、とのこと。

とはいえ、この地震の被害は大きく、さらに19世紀には教会財産の没収政策の影響もあり、カラトラバ・ラ・ヌエバは放棄されていきました。

ちなみに…

1476年、ローマ教皇の勅書によりカトリック王フェルナンドが、スペインに本拠を置く騎士団の総長に任命され、以来、現在に至るまで、スペインの騎士団(カラトラバ、アルカンタラ、サンティアゴ、モンテサ)の総長はスペイン国王です。16世紀、フェリペ2世は、イサベル・デ・ヴァロアとの結婚後、新婚旅行にこのカラトラバ・ラ・ヌエバを選び、これを機に、要塞への入口へと至る道が整備されました。

おすすめルート

シウダ・レアル(Ciudad Real)

   ↓17km

カラトラバ・ラ・ビエハ(Calatrava la vieja)かつての要塞都市から遺っているのは城塞の一部のみですが。

   ↓62km(約1時間)

カタトラバ・ラ・ヌエバ

   ↓33km

アルマグロ(Almagro)13世紀からカラトラバ騎士団の総長が住む館がありました。現在の建物はつい最近まで増改築が重ねられてきましたが、ムデハル様式の影響がみられるパティオには、アラブやゴート時代の建築素材も使われているとのこと。現在は演劇博物館となっています。また、アルマグロは17世紀の劇場(Corral de las comedias)でも有名。毎年、演劇祭が開催されています。

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カスティージャ・ラ・マンチャ州 シウダ・レアル県 中世前期 中世後期 騎士団

グラナディージャ Granadilla

エクストレマドゥーラ州カセレス県

中世には「グラナダ」と呼ばれていた村。アルアンダルス(イスラム教勢力下)では北のキリスト教勢力からの圧力に耐え、レコンキスタの過程ではレオン、カスティージャ、ポルトガルの国境となり、各時代に重要な役割を与えられていました。城壁は古く、9世紀ごろに建設され、時代ごとに改築・増築されて現在に至ります。お城は、16世紀に1代目アルバ公爵が古い城塞跡に建てたもの。イタリア建築の影響が見られるスマートなお城です。20世紀中ごろ、ダム建設により廃村に。水没は免れ、美しく修復されてはいるものの、帰りたくても帰れない人々がいるというのは、やはり悲しい…。(上の写真は、ダム湖を背景にしたお城)

元祖グラナダ!! 

中世、この村は「グラナダ」と呼ばれていました。8世紀から12世紀前半はイスラム教勢力下で、12世紀から13世紀初頭は、レオン王国、カスティージャ王国、ポルトガル王国の国境近くで、時代ごとに重要な役割を与えられていました。その後、レコンキスタが進み、カスティージャとレオンの国境が消滅するとともに、グラナディージャの軍事的重要性は低下しますが、それでも、この地方の中心的な村となっていました。1492年にカトリック両王を前に、ナスル朝のグラナダが陥落しカスティージャ領となると、こちらの「グラナダ」は「グラナディージャ」(Granada+指小辞のillaで、小グラナダ)に。ただし、公的な文書に「グラナディージャ」として現れるのはずいぶん後になってからのことです。

レオン王国VSカスティージャ王国

1157年、レオン王国とカスティージャ王国が分裂すると(この経緯はティエドラ城で)、グレドス山脈以南の境界線はほぼ銀の道(Via de la Plata )に沿って決められました。1160年、レオン王フェルナンド2世がイスラム教勢力下にあったグラナディージャを征服。再植民をし、城壁を建設し、1170年に「Villa」の称号を与えました。1191年、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世がサンティアゴ騎士団に寄進(同じころ、アルフォンソ9世はポンフェラーダをテンプル騎士団に寄進しています)。この時、グラナディージャを中心にいくつもの領地がサンティアゴ騎士団に与えらえました。再植民を活性化するため、あるいは、ムワッヒド朝やポルトガル、カスティージャの脅威に備えるため、などの理由が考えらえます。

グラナディージャはだれの手に…

その後、再び王領となったグラナディージャは、1282年にカスティージャ王アルフォンソ10世が、息子のペドロ親王に与えますが、ペドロ親王の死後グラナディージャを継いだサンチョが子どもがないまま死去すると、再び王領(フェルナンド4世)に。次は、アルフォンソ11世が子のサンチョ・デ・カルバハルに与え(ポルトガル王ペドロ1世とイネス・デ・カストロの娘ベアトリスと結婚)、その娘レオノールがアラゴン王フェルナンド1世(カスティージャの王族、フェルナンド・デ・アンテケーラ)と結婚したため、その子エンリケの手に渡りました。アラゴン王フェルナンド1世の死後、カスティージャ王国に戻った子どもたちは、フアン2世と対立し、失脚。結局、フアン2世はエンリケから所領を接収し、グラナディージャは1446年に、アルバレス・デ・トレド家(アルバ公爵家)に与えられました。以降、18世紀まで、アルバ公爵家の所領でした。

アルバ公爵家の城

グラナディージャの城を建設したのは、1代目アルバ公爵ガルシア・アルバレス・デ・トレド・イ・カリージョ・デ・トレド。1473年から78年のことです。このお城がある場所には、イスラム教勢力下ですでに城塞が建設されていたものと考えられています。細い正方形の塔の各面に、壁から張り出すように半円の塔が配されています。上から見ると4枚の花弁がある花のような形で、イタリア建築の影響が見られるスマートなお城。螺旋階段を登って屋上に出ると、そこはダム湖と村を一望する素晴らしい展望台です。地下には牢獄と貯水槽も造られていました。

村から城への入り口

他方、村を囲む城壁の起源は9世紀ごろと考えられています。その後、様々な改築や修復を経て現在に至ります。

村を囲む城壁
廃村

1955年、フランコ政権下でたくさん建設されたダムのひとつ、ガブリエル・イ・ガラン・ダム建設のため、グラナディージャの村は国に接収され、人々は移住を余儀なくされました。しかし、グラナディージャは高地にあるため、ダム建設により水没したことは未だかつてないどころか、もともと水没する予定もなかったそうです。

1980年には村ごと文化財として指定されると、お城や城壁などが修復され観光地として生まれ変わりました。夏になると様々なイベントが開催されています。かつての住民の中には村への帰還を訴え続ける人々もいますが、許可が下りないのが現状です。村の中心部は家々が修復され、窓には花が飾られ、とても美しいのですが、生活感が感じられないからなのか、突然、人々が消えていなくなってしまったような、不思議な雰囲気でした。

1950年代までは人々が住んでいた村
おすすめルート

グラナディージャ

  ↓42km

プラセンシア(Plasencia)新旧ふたつのカテドラル、町を囲む城壁、水道橋、宮殿…見どころ満載。また、プラセンシアからマドリード方面に向かうラ・ベラ地方(Valle de la Vera)、アビラ方面に向かうヘルテ地方(Valle de Jerte)、サラマンカ方面に向かうアンブロース地方(Valle de Ambroz)はそれぞれにちがった魅力があって、どれもおすすめ。このうちグラナディージャから近いのはアンブロース地方のエルバス(Hervas)。栗の産地です。

  ↓47km

コリア(Coria)一代目アルバ公爵がグラナディージャと同じ時期に造ったお城があります。このコリアのお城の建設に携わったフアン・カレラが、グラナディージャの築城にも携わっていたと考えられます(個人所有のため、内部の見学は不可)。ローマ時代の城壁、カテドラル…こちらも見どころ沢山の美しい村です。

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エクストレマドゥーラ州 カセレス県 アルアンダルス 中世前期 中世後期 アルバ公爵

フリアス Frías

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

村のはずれに立つ岩山の頂に、村の上に張り出すように建つお城。今にも家々の上に落ちてきそうです。実際に、過去には、城からの落石で命を落とした人もいたそうです。

城の入り口は、この塔の反対側にあります。村からは上り坂ですが入り口付近は平らなので、こちら側の警備は厳重でした。お城に入るには、跳ね橋を通って堀を渡ります。跳ね橋を渡ったら左に曲がり、堀沿いの外壁と城塞に挟まれた細い通路を進み主要門へ。主要門を入ったら今度は右に曲がって初めて城内に入ることができます。城に入るまでの間、跳ね橋のアーチの上から、通路の両側の城壁の上から、主要門の塔の上から、絶えず監視の目が光っていたわけです。

城内は不規則な四角形。入口から見ると正面に、先ほど村から仰ぎ見ていた主塔が建っています。主要門から見て左側の壁には二重アーチ窓が三つ並んでおり、騎士や神話上の動物(ハルピュイア:鷲のからだに女性の頭を持つ怪物)をモチーフとした装飾が美しいロマネスクの柱頭が、武骨な要塞建築の中で異彩を放っています。おそらくこの部分が城の最古の部分。城主の住居があった場所と思われます。反対側の壁沿いには兵舎や厩舎がありました。

柱頭の装飾が美しい二重窓

フリアスが史料に現れるのは9世紀。エブロ川上流域のレコンキスタが完了しキリスト教徒の村々ができていた頃。ナバラ、レオン、カスティージャを統一したナバラ王<大王>サンチョ3世(在位1000-1035)の死後、3人の息子たちが王国を分割相続すると、フリアスはナバラ領となりましたが、1054年にアタプエルカ(ブルゴス県)の戦いでカスティージャ王フェルナンド1世がナバラを退け、以後、カスティージャ領に。とはいえ、その後もしばらくはこの辺りでは、ナバラとの国境争いが続きます。

フリアスが繁栄したのは、カスティージャ王アルフォンソ8世(在位1158-1214)の時代。これまでメリンダデスと呼ばれるこの地方の行政の中心はペララダ城(1140ナバラ王による建設)でしたが、アルフォンソ8世がその役割をフリアス城に与え、防衛上もここを拠点としました。

現存する城の最古の建築部分はこのころの建設と考えられています。アルフォンソ8世は、ナバラ王国との国境線を防衛するために、近くのメディナ・デ・ポマールなどと併せて防衛ラインを築こうと、再植民に力を入れます。

このころ城塞主は世襲制ではなく、あくまでも王から任命されるものでした。フリアスの近くオニャの修道院長が、フリアス城塞主の横暴な振る舞いに対して、王に苦言を呈したという記録も遺っているそうです。しかし、レコンキスタの進行やキリスト教国間の国境の移動や消滅などによって、防衛上の重要地点が変化したり、貴族の力が強くなってくると、王は城塞を含めて所領を家臣に与えるようになり、貴族が所有する城が増えていきます。特に、14世紀のカスティージャ王位をめぐる内戦はその傾向に拍車をかけました。フリアスもその一例です。

1394年カスティージャ王エンリケ3世は、フリアスをディエゴ・ロペス・デ・スニガに与えるも、2年後にベハル(サラマンカ県)と引き換えにフリアスを取り戻し、「今後、いかなる王もフリアスを他の者に与えることはできない」という勅令を出しました。にも拘わらず、1446年息子のフアン2世はフリアスをペニャフィエル(バジャドリード県)と引き換えにペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの父親。メディナ・デ・ポマール参照)に与え、フリアスの城は決定的に王権を離れます。これまで特別法を享受していた村人たちは、新しい城主に過酷な納税を要求されることを恐れ、その入場を阻止しようと蜂起!しかし、強大な軍事力を持つ大貴族が相手では、その顛末は明らかなこと。結局、包囲戦の末、降伏を余儀なくされました。この戦いの様子は現在でも「フィエスタ・デ・カピタン」と呼ばれる村祭りで語り継がれています。

この戦いの中で元からあった城塞はかなりの被害を受けたのか、ペドロ・フェルナンデスは直ちに城を修復。入口付近の外堀や二重の城壁、主要門のある塔などを新たに建設しました。村の上に張り出す主塔も15世後半の建設。村人たちに権威を誇示しています。

その後、ベラスコ家はカトリック両王の時代にフリアス公爵位を授かるなど、隆盛していきますが、フリアスは16世紀にコムニダーデスの乱に巻き込まれ、17世紀にはペストにより人口が激減。歴史の表舞台から姿を消していきます。

フリアスのもう一つの象徴は、エブロ川にかかる美しい橋。満々と水をたたえて地中海に流れ込むエブロ川ですが、フリアスではまだ生まれたてです。橋の本体は12世紀のロマネスク建築。橋の中ほどに建つ塔は14世紀のゴシック建築です。塔の上部には鋸壁や石落としもあり、なかなか強固な警備体制だったことがうかがえます。ラス・メリンダデスと呼ばれるこの地方から、南のブレバ地方(ブルゴス県)や東のリオハ方面に向かうためにはこの塔で橋通行税(Pontazgo)を払わなければなりませんでした。

お城から橋を眺めて…

おすすめルートは、ポサ・デ・ラ・サル参照。

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カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世前期 中世後期 フリアス公爵

ティエドラ Tiedra

カスティージャ・イ・レオン州バジャドリード県

どっしりとした塔を城壁が取り囲む、カスティージャ地方によくあるタイプのお城です。お城の起源はおそらく12世紀。イベリア半島の北部でレオン王国、カスティージャ王国、アラゴン王国が覇権を争っていた時代です。

村に近いこちら側の城壁は14世紀の建設
12世紀 ―レオン王国 VS カスティージャ王国

711年にイベリア半島に上陸したイスラム教勢力を、半島北部コバドンガで退けたドン・ペラヨが築いたとされるアストゥリアス王国の系譜を継いだのがレオン王国。レオン王国の辺境で生まれたカスティージャ伯領から誕生したのがカスティージャ王国。11世紀、カスティージャ王国初代王フェルナンド1世がレオン王ベルムード3世から王位を奪い(1037年)、レオン―カスティージャ同君連合王国が誕生します。しかし、1065年フェルナンド1世が没すると、カスティージャを長男のサンチョ2世、レオンを次男のアルフォンソ6世がそれぞれ相続したため連合王国は分裂。サンチョ2世は兄弟たちから力づくで王位を奪い半島北部の再統一を目指すも、1072年サモラで暗殺されてしまいます。すると、弟のレオン王アルフォンソ6世がカスティージャ王位を継承し、再びレオン-カスティージャ同君連合が成立。アルフォンソ6世の孫アルフォンソ7世の死後(1157年)に再び分裂しますが、アルフォンソ7世の孫レオン王アルフォンソ9世の死後、その子ですでにカスティージャ王位を継いでいたフェルナンド3世(母はカスティージャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲーラ)が1230年レオン王位も継承し(ベナベンテ協定)、以降、両国が分裂することはありませんでした。

ティエドラ城 Castillo de Tiedra

ティエドラの城が文献に現れるのは、11世紀。カスティージャ王サンチョ2世の時代(在位1065-1072)。父であるカスティージャ王フェルナンド1世から王位を継いだサンチョが、サモラの所領を巡って姉ウラカと交わした文書が遺っており、その中に、ティエドラの城も出てくるのだそうです。12世紀、アルフォンソ7世の死後再びレオン―カスティージャが分裂すると、ティエドラはレオン王フェルナンド2世(在位: 1157-1188)が相続。このころ、ティエラ・デ・カンポスと呼ばれるこの地方は、しばしば両王国の戦闘の場となりました。フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世(在位: 1188-1230) は、カスティージャ王国との闘いのなか、和睦のためにカスティージャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲーラと結婚しますが、教皇の許可を得られずに離婚。その賠償としてティエドラの城を彼女に与えました。

ここから、城の持ち主が変わる経緯ですが、長いうえややこしいので飛ばしてくださって構いません。

13世紀、アルフォンソ10世を継いだサンチョ4世は、1285年、側近(Mayordomo mayo)ペドロ・アルバレスにティエドラを与えました。その娘テレサは、サンチョ4世の妻マリア・デ・モリーナの兄で、メネセス(パレンシア)の領主だったアルフォンソ・テジェス・デ・モリーナと結婚しており、こうしてティエドラはメネセス家の所領に。

その後、アルフォンソの孫アルフォンソ・テジェス・デ・メネセスが若くして亡くなったため、ティエドラをはじめ所領は妹のイサベル・テジェスが相続。彼女はアルブルケルケ領主フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケと結婚していました。フアン・アルフォンソはカスティージャ王ペドロ1世(残酷王/在位: 1350-1369)の側近でしたが、エンリケ2世との王位をめぐる内戦の最中、敵側に通じたために(おそらく)ペドロ1世の命により毒殺されてしまいました。ティエドラは内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世(在位: 1369-1379) の手に。彼はティエドラをはじめ所領を弟のサンチョに与え、アルブルケルケ伯爵位を授けました。

初代アルブルケルケ伯爵サンチョの娘、レオノールは後にアラゴン王位を継ぐフェルナンド・デ・アンテケーラ(アラゴン王在位 1412-1416)と結婚。ティエドラはその子どもたち「アラゴンの親王たち」の手に。後にフアン2世(在位: 1406-1454)が彼らからティエドラを接収し、ヒロン家に与えました。

…すみません。長くなってしまいました。

ティエドラ城の建設は12世紀?

ティエドラ城で最も古い部分は、城壁の北面と東面。12世紀、レオンとカスティージャが覇権を争っていたころに、ティエドラの村を囲む市壁が建設され、この部分はその一部であったと考えられています。ティエドラ城の前身は、村全体を防衛するために、市壁の内部にありました。

塔が建設された時期については異論がありますが、13世紀から14世紀初め、メネセス家により建設されたと考えられてきました。ただし、切石が周囲の城に比べて小さいことや、入り口のアーチが他の城には見られないものであることなどから、古い城壁とほぼ同じ時期、1200年ごろの建設とする意見もあります。11mx9mのほぼ正方形の塔は、高さ28m。地上部分は3層に分かれており、さらに地下階もあります(地下は見学不可)。

そして、14世紀に、現在の城壁の南面と西面が建設され、塔は村から隔離されました。こうして、市壁内にあった城を村から隔離して独立した城とすることは、13世紀末から14世紀にかけて、貴族の所領が多くなっていく中でよく行われていたのだそうです。

早春のティエドラ

2004年にティエドラ村が城を買い取り、修復を経て公開されています。

おすすめルート

塔の上から南に見えるお城はビジャロンソ城。そして、ここまで来たら、もうひとつ必見があります。近くのサン・セブリアン・デ・マソテにあるサン・シプリシオ教会は、馬蹄形アーチが連なる美しいモサラベ*の教会です(左の写真)。

バジャドリードから→20km→バンバのモサラベ教会→24km→サン・セブリアン・デ・マソテのモサラベ教会→9km→ロマネスクの香部屋Sacristiaが遺るシトー会の修道院、サンタ・エスピーナ修道院→10km→城壁に囲まれた村ウルエニャ→14km→ティエドラ城→9km→ビジャロンソ城→33km→トルデシージャス

1日でモサラベの教会と中世のお城を満喫💓。

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カスティージャ・イ・レオン州 バジャドリード県 中世前期 中世後期

ポンフェラーダ Ponferrada

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

お城の入り口付近はまさにヨーロッパの中世のお城!堀を渡る橋、城壁にある二つの小塔に挟まれた入口、幾重にも建設された城壁に鉤壁…お城らしい要素が詰まったフォトジェニックなお城です。

Torre de Moclín(左), Torre de la Puerta(中央), 入口、Torre de Cabrera(右)
テンプル騎士団の城 Castillo templario

11世紀、アストルガの司教が、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のためにシル川に橋を架けるよう命じました。この時に造られた橋が鉄で補強されていたため、Pons Ferrata(鉄の橋)からポンフェラーダという名前が生まれたと言われています。

ポンフェラーダの城は、「テンプル騎士団の城」と呼ばれています。1178年、レオン王フェルナンド2世は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者を守るためという理由で、ポンフェラーダをテンプル騎士団に与えました。このうち城に関しては、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世が1204年にテンプル騎士団から取りあげ、1211年に彼らに返したとの記録も遺っています。その理由については、テンプル騎士団がカタリ派との関係を疑われたためとの説もありますが…わかっていません。

他方、レオン王国とカスティージャ王国は、フェルナンド3世(カスティージャ王在位1217年 – 1252年)の治世に統一されるまで、たびたび国境を争っていました(この辺の経緯はティエドラ参照のこと)。1196年、カスティージャ王アルフォンソ8世がポンフェラーダのあるビエルソ地方に進軍。レオン王アルフォンソ9世はこの地方を守るために、村々の植民を強化。こうした背景も、ポンフェラーダをテンプル騎士団に委ねる理由のひとつだったようです。テンプル騎士団は、1226年までに、ここに彼らの城を築きました<13世紀の建設部分>。

ポスト・テンプル騎士団 ― その後のポンフェラーダ

しかし、テンプル騎士団は1312年に教皇庁により正式に禁止され、解体。ポンフェラーダ城は紆余曲折を経て、アルフォンソ11世が1340年にMayordomo mayorペドロ・フェルナンデス・デ・カストロに与えました。この人物が、テンプル騎士団の城塞を改築し、現在も遺る旧城(Castillo viejo)の建設を始めたと推測されています<14世紀の建設部分>。

1343年にペドロの死後ポンフェラーダを相続したのは娘のフアナ・デ・カストロ。早くに最初の夫を亡くし未亡人となったフアナはアルフォンソ11世を継いでカスティージャ王になったペドロ1世に見初められて1354年に結婚したものの、ペドロ1世はすでにフランスの王女ブランシュと結婚していたため、教皇から結婚の取り消しを言い渡され、その後はペドロ1世から譲り受けたドゥエニャス(パレンシア県)で余生を送りました。1374年にフアナが死去すると、内戦の末ペドロ1世を殺して王位に就いていた異母弟エンリケ2世がポンフェラーダを接収。

エンリケ2世は城を息子のエンリケ親王に与えますが、彼が謀反を謀ったため城を取り上げ、これをペドロ・エンリケス(双子の弟ファドリケの子)に与えました。後に城はペドロ・エンリケスの子ファドリケ・エンリケスが相続しますが、アラゴンの親王*たちを支持したことを理由に彼は1430年フアン2世に処刑されてしまいます。未亡人となったファドリケの妻、アルドンサ・デ・メンドサ(父ディエゴ・ウルタド・デ・メンドサ1367-1404―マンサナレス・エル・レアル参照)はこれをいとこのペドロ・マンリケ(1381-1440)与え、さらに息子のディエゴが相続。しかし、フアン2世に処刑されたファドリケ・エンリケスの妹ベアトリスと結婚していたガリシアの貴族ペドロ・アルバレス・オソリオが城の所有権を主張し、城を占拠しました。ベアトリスは、フアン2世から、もともとファドリケのものだった所領を受け取っていたため、ペドロは彼女との結婚により、ガリシアからビエルソ地方にかけて多くの所領を有する有力貴族となっていたのです。

こうした中、1467年、ガリシアおよびビエルソ地方で「イルマンディーニョスの反乱」と呼ばれるの反乱がおこります。飢饉や伝染病の流行などからくる社会不安が高まり、重税を課すなど専横的な貴族たちへの不満を募らせていた人々は「イルマンダーデIrmandade(カスティージャの エルマンダHermandad=自警団)」を結成し、貴族の城や館などを次々に襲いました。多くの城が被害を受ける中、ポンフェラーダもその対象となりましたが、強固な城が反乱に屈することはありませんでした。とはいえ、被害は重大で、反乱後に城の修復は避けられず、この時に、新城と呼ばれる部分が建設されています<15世紀の建設部分>。

旧城の城壁の上から新城を眺める

ペドロ・アルバレス・オソリオは、早世した息子アロンソの庶子ロドリゴ・オソリオ(つまりペドロと最初の妻ベアトリスの孫)に所領を相続させようとしました。ポンフェラーダ城には至る所に紋章があります。ペドロは二人目の妻、マリア・バサンとの婚姻中に建設した部分に、先妻との間の孫にあたるロドリゴがこの城を相続することの正当性を主張すべく、先妻ベアトリスの紋章を設置したのだそうです。

1483年、ペドロ・アルバレス・オソリオが近くのコルナテル城(Castillo de Cornatel)で死去すると、ロドリゴ・オソリオが城を占拠。叔母フアナ(ペドロとマリア・バサンの娘)との間に、ポンフェラーダ城をめぐる闘いが始まります。さらに、前述のディエゴ・マンリケも城の所有権を主張。ここに、カトリック両王が介入し、フアナ・オソリオの所有権を認める裁決を下します。しかし、ロドリゴがこれをつっぱねたため、1486年、カトリック両王はロドリゴの財産を没収するとともに、軍を招集。フアナから城の所有権を買い取り、ポンフェラーダを包囲し、大砲も使った大掛かりな攻撃に打って出ました。ロドリゴは降伏。ポンフェラーダはカトリック両王の所領に。カトリック両王もまた、城の修復と改築に取り掛かります。

しかし、ロドリゴはしぶとかった。1507年に再度ポンフェラーダを占拠。もちろんカトリック両王が黙っているはずもなく、ベナベンテ伯爵やアルバ公爵に命じて軍を派遣。ようやくロドリゴはガリシアへと逃げていきました。

城内解説ボード
黄色:13世紀 / 赤:14世紀(旧城)/ グレー:15-16世紀(新城、外壁など)

というわけで、テンプル騎士団のお城と銘打たれたポンフェラーダ城ですが、実際に騎士団の時代から遺っているのは、入り口から旧城へと向かう城壁部分のみ。のこりは、前述のように、領主が変わるたびに改築・増築が重ねられてきました。15世紀から王領であったポンフェラーダですが、城の重要性は次第になくなっていきます。それでも19世紀までは城壁内に宮殿が遺っていましたが、19世紀以降は城の切り石が新しい建物の建設に使われたり、挙句の果てには城内をサッカー場にするために整地したり…幸い、国が介入し重要文化財に指定したため実際にサッカー場として使われることはなく、さらなる受難は免れました。

城壁を外側から。奥の塔はTorre de Malvecino
おすすめルート

ポンフェラーダまで来たら、ラス・メドゥラスは絶対におすすめ。ラス・メドゥラスへ行く途中に、コルナテル城(Castillo de Cornatel―Villavieja村)があります(山頂に建つ城の雄々しいシルエットに心ひかれたものの、日没により見学することはできませんでした😢。見学は木曜日から日曜日*)。

車で50分ほどの少々ハードな行程ですが、サンティアゴ・デ・ペニャルバ(Santiago de Peñalba)に美しいモサラベの教会があります。(見学は週末のみ…夏休み中も例外はなく、月曜日にポンフェラーダに着いた私は涙をのみました*😢)。ペニャルバが無理でもポンフェラーダの郊外にサント・トマス・デ・ラス・オジャス(Santo Tomás de las Ollas)のモサラベ教会があります。馬蹄形アーチが連なるアプスが美しい。こちらは、教会のある広場に住むおばちゃんがカギを開けて、ガイドもしてくれます*(おしゃべりが止まりません)。

*見学時間等の情報はいずれも2022年のものです。

参照WEB
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 テンプル騎士団 中世前期 中世後期

ゴルマス Gormaz

カスティージャ・イ・レオン州ソリア県

丘の上に建つ巨大な要塞。見どころは何と言っても、城壁の南面に開く2重の大馬蹄形アーチです。城からの眺めも圧巻。カスティージャの大地をはるか彼方まで見渡せる。この城の存在意義がよくわかる眺めです。

ゴルマス城 Fortaleza de Gormaz

965-66年、コルドバ後ウマイヤ朝のアルハカム2世によりこの地方に派遣されていた「ガーリブ将軍」(スペイン語の文献に現れる呼称。後ウマイヤ朝の3人のカリフ―アブデラマンIII、アルハカムII 、ヒシャムII―に仕えた軍人)により建設(あるいは再建)が命じられたと伝えられており、近くの教会から建設年や当時のカリフ、アルハカム2世の名を刻んだ礎石が発見されたことからも、この時期に建設されたのは確かなようです。ちょうど、コルドバに都を置いた後ウマイヤ朝が繁栄を極めていたころ。近くを流れるドゥエロ川が南のアルアンダルス(イスラム教勢力圏)と北のキリスト教勢力圏を分ける境界線となっており、ゴルマスから80km南にあるメディナセリが、後ウマイヤ朝の辺境防衛最重要拠点でした。彼らはゴルマスに、北方のキリスト教勢力ににらみを利かせるための前線基地的な役割を担わせたかったのでしょう。軍事的にも行政的にも重要な城だったことをうかがわせる、威厳を感じさせる城です。

当時のこの地域は両勢力の進軍が絶えず、ゴルマス城も両者の間を行き来していました。実際に975年にはレオン・ナバラのキリスト教王国連合軍が城を包囲するも、ガーリブ軍がこれを撃破。しかし、3年後にはキリスト教軍が奪い返し、その後アルマンソール*が奪回…

完全にカスティージャ王国領になったのは、初代王フェルナンド1世が現在のグアダラハラまでを征服した11世紀後半のこと。1087年には、アルフォンソ6世がエル・シド*にゴルマスを与え、エル・シドの死後は再び王領になっています。しかし、14世紀の内戦を経て、他の多くの城と同様、ゴルマスもカスティージャ王家を離れて貴族の所領に。1395年、エンリケ3世によりメンドサ家(参照:マンサナレス・エル・レアル)に与えられました。

城塞の全体像(北側)

小高い丘の頂上に地形に合わせて建設された城は、とにかく大きい!高さ10m以上、周囲1,000mを超える城壁に囲まれ、城壁から突き出た28の塔が並んでいます。

城壁に囲まれた西側の広大な部分は軍隊が集い、戦争に必要な軍馬や武器などが保管されていた場所。現在、城壁の中は草が生え石が転がる更地ですが、何といっても、目玉は南の壁面に開いた美しい2重の大馬蹄形アーチ!! アルハンブラの裁きの門を思わせる堂々たる馬蹄形アーチがこんなに北で見られるなんて!

東端はアルカサル。城の心臓部分です。こちらは城の内壁も多少は遺っており、主塔、10万リットルの容量がある貯水槽など、往時の間取りを想像することもできます。また、この部分には14世紀の改築の跡も遺っており、この時に、アルカサルの西側に堀が掘られ、この部分の城壁が高く改築され、城内西側の広場からアルカサルへの入り口となっている塔(トラスタマラ塔)が建設されました。少数で防衛できるよう、城の一部分の防衛を強化したものと推測されます。

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