カスティージャ・イ・レオン州レオン県
お城の入り口付近はまさにヨーロッパの中世のお城!堀を渡る橋、城壁にある二つの小塔に挟まれた入口、幾重にも建設された城壁に鉤壁…お城らしい要素が詰まったフォトジェニックなお城です。

テンプル騎士団の城 Castillo templario
11世紀、アストルガの司教が、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のためにシル川に橋を架けるよう命じました。この時に造られた橋が鉄で補強されていたため、Pons Ferrata(鉄の橋)からポンフェラーダという名前が生まれたと言われています。
ポンフェラーダの城は、「テンプル騎士団の城」と呼ばれています。1178年、レオン王フェルナンド2世は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者を守るためという理由で、ポンフェラーダをテンプル騎士団に与えました。このうち城に関しては、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世が1204年にテンプル騎士団から取りあげ、1211年に彼らに返したとの記録も遺っています。その理由については、テンプル騎士団がカタリ派との関係を疑われたためとの説もありますが…わかっていません。
他方、レオン王国とカスティージャ王国は、フェルナンド3世(カスティージャ王在位1217年 – 1252年)の治世に統一されるまで、たびたび国境を争っていました(この辺の経緯はティエドラ参照のこと)。1196年、カスティージャ王アルフォンソ8世がポンフェラーダのあるビエルソ地方に進軍。レオン王アルフォンソ9世はこの地方を守るために、村々の植民を強化。こうした背景も、ポンフェラーダをテンプル騎士団に委ねる理由のひとつだったようです。テンプル騎士団は、1226年までに、ここに彼らの城を築きました<13世紀の建設部分>。
ポスト・テンプル騎士団 ― その後のポンフェラーダ
しかし、テンプル騎士団は1312年に教皇庁により正式に禁止され、解体。ポンフェラーダ城は紆余曲折を経て、アルフォンソ11世が1340年にMayordomo mayorペドロ・フェルナンデス・デ・カストロに与えました。この人物が、テンプル騎士団の城塞を改築し、現在も遺る旧城(Castillo viejo)の建設を始めたと推測されています<14世紀の建設部分>。

正面はTorre de Cabrera




1343年にペドロの死後ポンフェラーダを相続したのは娘のフアナ・デ・カストロ。早くに最初の夫を亡くし未亡人となったフアナはアルフォンソ11世を継いでカスティージャ王になったペドロ1世に見初められて1354年に結婚したものの、ペドロ1世はすでにフランスの王女ブランシュと結婚していたため、教皇から結婚の取り消しを言い渡され、その後はペドロ1世から譲り受けたドゥエニャス(パレンシア県)で余生を送りました。1374年にフアナが死去すると、内戦の末ペドロ1世を殺して王位に就いていた異母弟エンリケ2世がポンフェラーダを接収。
エンリケ2世は城を息子のエンリケ親王に与えますが、彼が謀反を謀ったため城を取り上げ、これをペドロ・エンリケス(双子の弟ファドリケの子)に与えました。後に城はペドロ・エンリケスの子ファドリケ・エンリケスが相続しますが、アラゴンの親王*たちを支持したことを理由に彼は1430年フアン2世に処刑されてしまいます。未亡人となったファドリケの妻、アルドンサ・デ・メンドサ(父ディエゴ・ウルタド・デ・メンドサ1367-1404―マンサナレス・エル・レアル参照)はこれをいとこのペドロ・マンリケ(1381-1440)与え、さらに息子のディエゴが相続。しかし、フアン2世に処刑されたファドリケ・エンリケスの妹ベアトリスと結婚していたガリシアの貴族ペドロ・アルバレス・オソリオが城の所有権を主張し、城を占拠しました。ベアトリスは、フアン2世から、もともとファドリケのものだった所領を受け取っていたため、ペドロは彼女との結婚により、ガリシアからビエルソ地方にかけて多くの所領を有する有力貴族となっていたのです。
こうした中、1467年、ガリシアおよびビエルソ地方で「イルマンディーニョスの反乱」と呼ばれるの反乱がおこります。飢饉や伝染病の流行などからくる社会不安が高まり、重税を課すなど専横的な貴族たちへの不満を募らせていた人々は「イルマンダーデIrmandade(カスティージャの エルマンダHermandad=自警団)」を結成し、貴族の城や館などを次々に襲いました。多くの城が被害を受ける中、ポンフェラーダもその対象となりましたが、強固な城が反乱に屈することはありませんでした。とはいえ、被害は重大で、反乱後に城の修復は避けられず、この時に、新城と呼ばれる部分が建設されています<15世紀の建設部分>。


カストロ家のシンボル

左はペドロ・アルバレス・オソリオ
右はベアトリス・デ・カストロ
ペドロ・アルバレス・オソリオは、早世した息子アロンソの庶子ロドリゴ・オソリオ(つまりペドロと最初の妻ベアトリスの孫)に所領を相続させようとしました。ポンフェラーダ城には至る所に紋章があります。ペドロは二人目の妻、マリア・バサンとの婚姻中に建設した部分に、先妻との間の孫にあたるロドリゴがこの城を相続することの正当性を主張すべく、先妻ベアトリスの紋章を設置したのだそうです。
1483年、ペドロ・アルバレス・オソリオが近くのコルナテル城(Castillo de Cornatel)で死去すると、ロドリゴ・オソリオが城を占拠。叔母フアナ(ペドロとマリア・バサンの娘)との間に、ポンフェラーダ城をめぐる闘いが始まります。さらに、前述のディエゴ・マンリケも城の所有権を主張。ここに、カトリック両王が介入し、フアナ・オソリオの所有権を認める裁決を下します。しかし、ロドリゴがこれをつっぱねたため、1486年、カトリック両王はロドリゴの財産を没収するとともに、軍を招集。フアナから城の所有権を買い取り、ポンフェラーダを包囲し、大砲も使った大掛かりな攻撃に打って出ました。ロドリゴは降伏。ポンフェラーダはカトリック両王の所領に。カトリック両王もまた、城の修復と改築に取り掛かります。


15世紀増築部分
しかし、ロドリゴはしぶとかった。1507年に再度ポンフェラーダを占拠。もちろんカトリック両王が黙っているはずもなく、ベナベンテ伯爵やアルバ公爵に命じて軍を派遣。ようやくロドリゴはガリシアへと逃げていきました。

黄色:13世紀 / 赤:14世紀(旧城)/ グレー:15-16世紀(新城、外壁など)
というわけで、テンプル騎士団のお城と銘打たれたポンフェラーダ城ですが、実際に騎士団の時代から遺っているのは、入り口から旧城へと向かう城壁部分のみ。のこりは、前述のように、領主が変わるたびに改築・増築が重ねられてきました。15世紀から王領であったポンフェラーダですが、城の重要性は次第になくなっていきます。それでも19世紀までは城壁内に宮殿が遺っていましたが、19世紀以降は城の切り石が新しい建物の建設に使われたり、挙句の果てには城内をサッカー場にするために整地したり…幸い、国が介入し重要文化財に指定したため実際にサッカー場として使われることはなく、さらなる受難は免れました。

おすすめルート
ポンフェラーダまで来たら、ラス・メドゥラスは絶対におすすめ。ラス・メドゥラスへ行く途中に、コルナテル城(Castillo de Cornatel―Villavieja村)があります(山頂に建つ城の雄々しいシルエットに心ひかれたものの、日没により見学することはできませんでした😢。見学は木曜日から日曜日*)。
車で50分ほどの少々ハードな行程ですが、サンティアゴ・デ・ペニャルバ(Santiago de Peñalba)に美しいモサラベの教会があります。(見学は週末のみ…夏休み中も例外はなく、月曜日にポンフェラーダに着いた私は涙をのみました*😢)。ペニャルバが無理でもポンフェラーダの郊外にサント・トマス・デ・ラス・オジャス(Santo Tomás de las Ollas)のモサラベ教会があります。馬蹄形アーチが連なるアプスが美しい。こちらは、教会のある広場に住むおばちゃんがカギを開けて、ガイドもしてくれます*(おしゃべりが止まりません)。
*見学時間等の情報はいずれも2022年のものです。
参照WEB
- ポンフェラーダ城オフィシャルページ Castillo de los Templarios
- ポンフェラーダ市 Ayuntamiento de Ponferrada – Castillo de los Templarios
- ポンフェラーダ市観光オフィシャルページ Pátina oficial de Turismo de Ponferrada – Castillo de los Templarios
- Real Academia de la Historia “Pedro Fernández de Castro”
- Real Academia de la Historia “Pedro Álvarez Osorio”
- Real Academia de la Historia “Rodrigo Osorio”
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