モントゥエンガ・デ・ソリア Montuenga de Soria

カスティージャ・イ・レオン州ソリア県

マドリードからサラゴサへ向かう途中、カスティージャとアラゴンの境界、ハロン川流域に建つお城。赤みの強い石の色が印象的です。塔には上から下まで大きな亀裂が走り、今にも真っ二つに割れてしまいそう。

パディージャ家の城?

「パディージャ家の城」とも呼ばれているので、カスティージャの貴族パディージャ家のものであったと思われますが、いつだれが築城したのか…(手持ちの資料では分からず。調べがついたら更新します)。

海抜約900m。村から見上げる岩山の頂上に、その細長い地形を利用して、マンポステリア工法と、角に切り石積みを組み合わせて建設されています。城の両端に塔があり、この二つの塔をつなぐように、城壁が築かれていました。現在はどれも部分的にのこっているだけですが。

カスティージャとアラゴンの間で

ハロン川流域は半島中央からサラゴサへと向かう、交通の要所となるとともに、カスティージャ王国とアラゴン王国の国境を形成し、しばしば両王国の戦いの場となっていました。メディナセリ(Medinaceli)から、モントゥエンガ、ソマエン(Somaén)、アルコス・デ・ハロン(Arcos de Jalón)、マンテアグード・デ・ラス・ビカリアス(Monteagudo de Vicarias)、ラ・ラジャ(La Raya)と、比較的小さな間隔で城や塔が建っているのはこのためです。特にラ・ラジャは、常にカスティージャとアラゴンの境界だったため、争いが絶えなかった一方、ラ・ラジャのお城の麓にある小さな教会(Ermita de Nuestra Sra. de la Torre)はちょうど国境線上にあったため、この教会で洗礼を受けた者は、カスティージャとアラゴンの両者のフエロ(特別法)が適用されたのだとか。

お城の将来

現在は、個人所有です。浸食の激しい土台となっている岩山と、今にも崩れ落ちそうだった塔や城壁は補強され、今後、この場所に住居を建設する計画とのこと。この計画は、お城の保存と景観の維持のため、カスティージャ・イ・レオン州が監督しているそうです。

元のお城から半分以上は失われてしまっていますが、高台に建つ城のシルエットはとてもカッコいいうえ、塔に縦に走る亀裂が強烈で、妙に惹かれるお城です。もうずいぶん前に立ち寄ったのですが、きれいに修復されて博物館になっているお城よりもはるかに記憶に残っています。今後、どのような姿になるのか、興味深いとともに、少々怖い…とはいえ、あのままではいつか塔は崩れ、跡すらなくなってしまいますね。それはそれで、詩的でいいんじゃないか…と、思わないでもないのですが。

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メディナ・デ・ポマール Medina de Pomar       

ブルゴス県メディナ・デ・ポマール

ふたつの大きな塔が特徴的な城塞宮殿。塔はそれぞれ15m四方、塔をつなぐ中央の建物は幅22m。塔の壁の厚さは2.5mもあります。重厚で威圧的な印象を与えるお城です。

メディナはアラビア語

スペインの地名によく現れる「メディナ」はアラビア語で町を意味する「マッディーナ」が語源。メディナ・デ・ポマール(リンゴの町?)は、「メディナ」と名がつく市町村の中では最も北にある町です。アラビア語起源の名前であるため、町もこの地方がイスラム影響下にあったころにできたとも考えられますが、町の誕生がいつだったのかはわかっていません。

カスティージャ内戦

メディナ・デ・ポマールが、歴史の表舞台に現れるのは14世紀。カスティージャ王位をめぐるペドロ1世とエンリケ2世の戦い(青池保子先生『アルカサルー王城』♡)の後のことです。この内戦はカスティージャ王国の城の歴史の転機となりました。内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世は支持者獲得のために家臣に城を含む領地の多くを与えました。これ以降、王領にあった城の多くが貴族の所有となり、現在に至っています。また、当時の名家の多くがペドロ1世支持にまわったために没落する一方で、エンリケを支持した新興貴族たちが台頭。アルバ公爵家(アルバレス・デ・トレド家)、フリアス公爵家(ベラスコ家)、インファンタード公爵家(メンドサ家)、メディナセリ公爵家など、今でもマスコミを賑わすことのある名前が、歴史の表舞台にますます登場するようになりました。

ベラスコ家の城

カスティージャ王位をめぐる内戦の末、ペドロ1世を殺し王位に就いたエンリケ2世は、内戦中に受けた忠誠に報いるために、1369年、ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの曽祖父)にメディナ・デ・ポマールを与えました。ベラスコ家は、11世紀ごろから文献に現れる古い一族。古くはアストゥリアスーレオン王家とも関係を築き、時代が下るとカスティージャ王国での地位を固めていきました。特にエンリケ2世以降トラスタマラ朝で、歴史の表舞台に常に登場するようになり、カトリック両王の時代にフリアス公爵位も与えられ、現在に至ります。

この城の建設は、このペドロ・フェルナンデスと妻マリア・サルミエントの手によります。二人は、このメディナ・デ・ポマールから、周囲に持ついくつもの所領を経営しようとしました。

塔に遺るムデハル様式の漆喰装飾

四角いどっしりとした塔は、この地方の城塞によく見られ、塔だけの場合もあれば、城の一画に主塔として建設されている場合もあります。建設当初は、町を囲む市壁に加えて、城の周りに深い堀と城壁が巡っていましたが、市壁の一部を除きすべて失われてしまいました。城への入り口は、塔に挟まれた中央の長方形の建物にあります。入口の右に突き出ている6角形の塔の中には、各階をつなぐ螺旋階段が通っています。威圧的で重たい印象の外観ですが、内部には繊細なイスラム装飾の影響も見られ、向かって左側の塔の最上階には、ムデハル(コカ城参照)漆喰装飾が遺っています。この装飾の中に組み込まれた紋章は、城を建設したペドロ・フェルナンデスとマリア・サルミエント夫妻のもの。

漆喰装飾に組み込まれた紋章
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コカ Coca

カスティージャ・イ・レオン州セゴビア県

レンガが織りなす模様が美しい、ムデハル様式を代表するお城。必見です。

ゴシック-ムデハルのお城の代表格

ムデハルとは、8世紀にイベリア半島の大半がイスラム勢力下におかれて以降、キリスト教勢力によりレコンキスタ(再征服)された地に、信仰や法習慣などを維持しながら残留したイスラム教徒のこと。彼らが伝えたイスラム芸術はキリスト教建築に大きな影響を与えました。レンガ構造、タイルの使用、アルテソナードと呼ばれる彩色格子天井などが特徴。ペドロ1世が建てたセビージャのアルカサルはその最たる例。お城だけでも、コカ城をはじめ、メディナ・デル・カンポのモタ城、セゴビアのアルカサルなどなど、枚挙に暇がありません。

ムデハル様式のコカ城でもっとも目を引くのはやはり、レンガを利用した美しい装飾です。レンガ色が主体ですが、銃眼やパティオの円柱には石灰岩が使われており、レンガ色と白のコントラストも印象的。塔や城壁に多数設置されたタレット(壁から張り出した小塔)とともに、独特の美しい景観を作り出しています。入口のアーチや城内には、壁画装飾も遺っています。

大砲の時代のお城

お城の本体は少しいびつな正方形。その1隅に正方形の主塔、3隅に八角形の塔(城壁から張り出している部分は六角)が配されています。その周りを城壁が取り囲み、こちらも4隅に六角形の塔が建設されています。多角形の塔は各面にタレット(張出塔)が配され、城壁にもところどころにタレットが設置されており、お城に独特の景観を与えています。

城は、村のはずれに建てられています。深い堀は、乾いた川の跡を利用したもの。深い堀に面した外壁は、下に行くほど厚くどっしりとしています。これは、大砲が戦争の主役になった時代のお城の特徴。

もうひとつ、大砲の時代の防衛施設。外壁の塔の地下には筒状の水槽があり、堀の反対側にあった地下貯水槽から水が引かれていました。さらにこの地下貯水槽には地下を通って四方から水が引かれていて、敵が城の地下爆破を狙って地下道を掘った場合、水の振動が外壁の塔の地下水槽に伝わり、これによって敵の地下壕作戦を察知することができるようになっていました。コカのこの装置が実際に役に立ったことがあるかどうかはわかりませんが、例えば、グラナダ戦役の最中、ベレス・マラガ攻防戦の際には、カトリック両王軍の将軍が、塔の下の地下壕に大砲を入れ、塔を倒壊させたとの記録が残っています。

主塔の前に城への入り口。大きな堀を渡って。
フォンセカ家の城、アロンソがいっぱい。

王領だったコカは、15世紀半ばにサンティジャーナ侯爵イニゴ・ロペス・デ・メンドサ(参照:マンサナレス・エル・レアル)に与えられますが、彼はアビラ司教だった(のちのセビージャ大司教)アロンソ・デ・フォンセカ・イ・ウジョア(1415-1473)と、サルダーニャ(パレンシア県)を交換。以後、コカはフォンセカ家の所領となります。アロンソはカスティージャ王フアン2世に城塞建設の許可をもらい、甥であるアロンソ・デ・フォンセカ・アベジャネダがコカ城を相続すると、彼が大部分の建築を指揮しました。このアロンソが死去すると、初代コカ領主セビージャ大司教の妹カタリーナの子、アロンソ・デ・フォンセカ・イ・アセベド(1476-1534/サンティアゴ大司教)がコカを相続します。新領主には娘がいましたが、1504年.カトリック両王は、コカ城は男子のみが相続するよう命じました。その目的は、アロンソの弟でフェルナンド王の側近だったアントニオ・デ・フォンセカをコカの領主にすること。同時に、カトリック両王の反対を押し切って、セネテ侯爵(ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール・イ・メンドサ:カラオラ城)と結婚したアロンソの娘メンシアが城を相続できないように画策したのでした。

後に、コカはアルバ家の所領となり、現在はアルバ家が国に使用権を譲渡しているとのこと。

ボルトジャ川(Rio Voltoya)を渡る前に見えてくるコカ城。
平地のお城というイメージでしたが、意外と高さがあってカッコいいです。
おすすめルート ムデハル様式のお城をめぐる

アレバロ(Arévalo)→27km→コカ(Coca)→35km→クエジャール(Cuellar)→60km→メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)で、ムデハル様式を代表するお城を一気にまわれてしまいます。クエジャールとメディナ・デル・カンポの間、オルメド(Olmedo)には、屋外ムデハル博物館があり、カスティージャ・イ・レオン州にあるムデハル建築のミニチュアが並んでいます。

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ラス・メドゥラス Las Médulas

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

言わずと知れた(?)世界遺産。レオン県ポンフェラーダから車で30分ほど。

約1500万年前に形成された沖積層。この金鉱脈は、ローマ到来以前からすでに原住民が採掘しており、この付近からは金の装飾品が出土しています。

しかし、ラス・メドゥラスを形作ったのはローマ人です。ローマ帝国は、紀元前1世紀、初代皇帝アウグストゥスの時代にイベリア半島北部を征服。間もなく、この地で、ローマ人による大規模な金の採掘がはじまりました。土木技術に長けた彼らは、「ルイナ・モンティウム(山崩し)」と呼ばれる方法で大量の金を採掘しました。それは、水道を建設して近くの山々の水源から水を引いて貯水池に貯め、その水を、金鉱脈のある場所に無数に掘ったトンネルに流し込んで山崩れを起こし、押し流された土砂の中から金を採集するというもの。近くには当時の水道跡も遺っています。

Google Mapで、山の崩れ具合がよくわかります。

オレジャン村のはずれにあるオレジャン展望台(Mirador de Orellán)から、ラス・メドゥラスを一望できます(上↑の写真)。この展望台の近くには、坑道への入り口もあるので是非!人数制限があるので少々待たなければならないかもしれませんが、その価値あり、です。坑道の中は夏でも寒いので、ご注意を。身長160㎝の私でも、腰をかがめて歩かなければならない場所もありました。ヘルメットを貸してくれます*。

坑道を進むと、絶壁に開いた展望台に出る。山崩しを免れた赤土に坑道の跡が見える。

ラス・メドゥラスの村からは、赤土の山の間を通る散策コースがあります。オレジャン展望台にのぼるコースもありますが、往復するとそれなりに時間がかかるので、日没時間など注意が必要です。以前は、ラ・クエボナ(La Cuevona)と呼ばれる赤土のトンネルを通ることができたそうですが、2022年現在、トンネルは残念ながら立ち入り禁止。

散策中
ラス・メドゥラスの村から見た風景。
おすすめルート

モンテフラド(Montefurado ルーゴ県)にも、ラス・メドゥラスのミニチュアのような金の採掘跡があります。また、川筋を変えて川底の砂金を採集するために掘られたトンネルも遺っています。オウレンセ方面に向かって車で50分ほど。

*見学に関する情報は、いずれも2022年夏のものです。

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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 ローマ遺跡 産業遺産

プエブラ・デ・サナブリア Puebla de Sanabria

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

ポルトガル国境まで15kmほどに位置するプエブラ・デ・サナブリア。この村にはお城がふたつありました。村の東端、テラ川を見下ろして建つお城は16世初頭、ポルトガルに起源をもつ貴族ベナベンテ公爵により建てられたもの。村を挟んで反対側にあったお城は、18世紀初頭にポルトガルが建設した星形要塞。どちらもポルトガルが大いに関係しています。

入り口前の広場から。
ベナベンテ伯爵登場

プエブラ・デ・サナブリアの集落は古くから史料に現れており(509年)、1132年からはすでに何らかの城塞があったことが記録されています。ポルトガル国境から15km程度の位置にあるプエブラは、中世から常に対ポルトガル防衛最前線にあり、1273年にはアルフォンソ10世からフエロを与えられています。

14世紀、プエブラ・デ・サナブリアの領主はペドロ1世の側近フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケでしたが、彼の死後(おそらくペドロ1世の命により毒殺)、ペドロ1世がこれをフェルナンド・デ・カストロ(ペドロの愛妾フアナ・デ・カストロの兄弟)に譲渡。更に、ペドロは1356年に、フェルナンドにガリシアの領地を与える代わりに、プエブラをメンス・ロドリゲスに与えました。

その後、ペドロ1世とエンリケ2世のカスティージャ王位をめぐる争いが終結し、トラスタマラ朝が成立した後、フアン1世(1358-1390)は、内戦中の父エンリケ2世に対する忠誠に報いるため、プエブラを、当地の貴族ロサダ家のアルバル・バスケスに与えました。1451年、フアン2世の治世に、3代目ベナベンテ伯爵アロンソ・ピメンテルが、領主フアン・デ・ロサダの未亡人マヨール・デ・ポーラスから、プエブラの半分を購入。さらに、1465年、エンリケ4世から王位の簒奪を狙った異母弟アルフォンソが、プエブラのもう半分(これまではディエゴ・デ・ロサダのもの)を4代目ベナベンテ伯爵ロドリゴ・デ・ピメンテルに与えましたが、アルフォンソの死とともに、この譲渡は取り消されました。イサベル1世とフアナ・ラ・ベルトラネハによるカスティージャ王位継承戦争終結後、カトリック女王イサベル1世は、ポルトガルのアルフォンソ5世(フアナ側)に加担したディエゴ・デ・ロサダから所領を接収し、プエブラの残り半分をロドリゴ・ピメンテルに与えますが、1480年、ポルトガルとの停戦条約締結とともに、この譲渡も取り消され、プエブラの半分はまたロサダ家の手に戻ります。1489年、ディエゴ・デ・ロサダの未亡人レオノールが、ベナベンテ伯ロドリゴ・ピメンテルと、ロサダ家が持つプエブラ半分とモンタマルタの所領を交換することで合意に達し、その娘、マリアの時に、ベナベンテ伯はようやくプエブラ全体を掌握することができました。

テラ川からお城を見上げる。
左から、Iglesia Ntra. Sra. de Azogue, Ermita de San Cayetano, Castillo
ベナベンテ伯爵の城 Castillo del Conde de Benavente

ベナベンテ4代目伯爵兼1代目公爵ロドリゴ・ピメンテルは、テラ川を見下ろす高台に、お城を建設します。ベナベンテにはロサダ家の時代にも塔があったことが記録されており、あるいは、現存するお城にある塔が、ロサダ家の古い塔を改築、増築したものかもしれません。

主塔(Torre de Homenaje)の入り口。左の円塔の中はまわり階段。

ほぼ正方形の強固な城壁の4隅に円塔を配し、その中央にどっしりとした矩形の塔が建っています。この塔は”El Macho”(雄)と呼ばれているのだそうです。お城の見学は、いつものように階段を登ったり下りたり。城内には、塔の壁にポッコリと張り出したトイレや、厨房の煙突など、生活臭あふれる要素も遺っています。また、中世の衣装の展示も充実していて、なかなか楽しいのです。

お城が完成して間もない1506年、スペイン王位についたフアナ女王とフェリペ美公夫妻がこのお城を訪れています。

その後、1887年、プエブラ・デ・サナブリア村がお城を買い取り、しばらくは、干し草倉庫、牢獄、鶏舎など、少々悲しい使われ方をしていましたが、修復を経て現在は一般に公開されています。

サン・カルロス城 Fuerte de San Carlos ― ポルトガルが築いた星形要塞

プエブラ・デ・サナブリアにはもう一つ、お城の跡があります。現在は小高い丘にしか見えませんが、お城から村を挟んで反対側の丘に、18世紀初頭にポルトガル軍が建設したお城の跡があります。星形要塞と呼ばれる形のお城で、日本の五稜郭のような形。スペインの星形要塞の分布を見ると、ハカやパンプローナなどフランス国境周辺と、プエブラ、シウダロドリーゴなどポルトガル国境沿いに集中しています。国境を越えてポルトガル側にも、アラメイダ、バレンサ等の星形要塞があります。

フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。

村を挟んで城と反対側にある丘の上、サン・カルロス城があった場所から見たプエブラ・デ・サナブリア。
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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 近世 星形要塞

参考WEB

ベナベンテ Benavente

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

お城として十分に強固な印象を与える建物ですが、さらに壮大なお城に複数あった塔のひとつに過ぎません。現在はパラドールとなっています。

オルビゴ川、エスラ川、テラ川が交わるベナベンテは、緑豊かな肥沃な地です。カスティージャとガリシアを結ぶ交通の要所でもあり、古くから人々が生活していました。ベナベンテにはフェルナンド2世(レオン王在位:1157-1188)のころから何らかの城塞があったことがわかっています。

高台にあるお城の横の広場から。オルビゴ川、テラ川が流れる方向。真夏でもこんなに緑。
ベナベンテ伯爵-公爵家―ピメンテル家

時は下って14世紀末、カスティージャ王エンリケ3世は、1398年、ポルトガルからカスティージャに亡命してきたフアン・アルフォンソ・ピメンテルアリハ・デル・インファンタード参照)に、ベナベンテの所領と伯爵位を与えました。

ベナベンテ伯爵となったフアン・アルフォンソですが、ベナベンテの人々には歓迎されなかったようです。2年後、ベナベンテの人々は王に対して領主、特に領主を取り巻くポルトガル人たちの専横的な振る舞いについて訴えていました。その後、2代目伯爵ロドリゴ・アロンソは、マジョルガ、ビジャロン(バジャドリード)などに領地を広げ、フランスへの外交使節団に加わるなど活躍、王族アロンソ・エンリケス(エンリケ2世の双子の弟ファドリケの子)の娘レオノールと結婚して王家とのつながりを強めるなど、着々と地位を固めていきます。

エンリケ3世を継いだフアン2世の治世で、2代目、3代目伯爵は何度か王と対立し、その度にベナベンテの城を接収されては返されたりもしていましたが、4代目伯爵でベナベンテ公爵位も授けられたロドリゴ・アロンソ・ピメンテルは、ポルティージョ、プエブラ・デ・サナブリア、ビアナ・デル・ボロなどにも所領を持ち、それぞれに城を建設。ベナベンテにも壮大な城塞宮殿を建設しました。1499年にロドリーゴが死去すると、建築に問題があったのか、城塞宮殿は土台から倒壊の危機にさらされます。ロドリゴの死後ベナベンテを継いだアロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、城塞宮殿の修復と改築を余儀なくされました。

ピメンテル家の城塞宮殿は、当時、この地を訪れた人物に「グラナダとセビージャの宮殿を除いて、スペインで並ぶものはない」とまで言わしめたほど。「正方形で、4隅に屈強な塔があり、周囲を堀で囲まれ、さらに強固な城壁に守られていた。内部には正方形の中庭があり…贅を尽くした装飾が施されていた」宮殿は、例えば、天井は美しい「アルテソナード」(ムデハルの影響が色濃い極彩色の格子天井)で彩られ、それを支える円柱には、アラバスター、大理石、ジャスパーなどが使われていました。また、城塞宮殿の近くには庭園があり、そこにはラクダ、ライオン、ゾウなどエキゾチックな動物たちが飼われていたとのこと。

この宮殿を訪れた人々の中には、スペイン王位に就いたばかりのフェリペ美公とフアナ女王夫妻(1502年、1506年)や、あのチェーザレ・ボルジア(1506年)がいます。カトリック王フェルナンドによりメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されていたチェーザレ・ボルジアは、フェルナンドと対立していたベナベンテ公爵の助けを借りて脱出、ナバラへ向かう途中に公爵の宮殿に立ち寄りました*。*ただし、ベナベンテ公爵の他の宮殿であったとの記述もあり。

トーレ・デル・カラコル Torre del caracol

この贅を尽くした城塞宮殿から唯一現存するのが「トーレ・デル・カラコル(カタツムリの塔、あるいは、螺旋階段の塔)」です。塔に施された紋章は、このアロンソ・ピメンテルと妻アナ・デ・ベラスコのもの。

19世紀、ベナベンテ城は大規模な火災に見舞われ、世紀の終わりごろには、トーレ・デル・カラコルを残し、城塞宮殿跡はすべて取り壊されてしまいました。現存する塔は20世紀中ごろに修復され、1971年に国営パラドールとなり、現在に至ります。現在、この塔には往時をしのばせる美しいアルテソナード(ムデハル様式の格子天井)がありますが、これは近くのサン・ロマン・デル・バジェ教会にあったもの。

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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期

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泊まれるお城 パラドール
Parador de Benavente
Paseo de la Mota, s/n 49600 Benavente Zamora
+34 980630300

アリハ・デル・インファンタード Alija del Infantado

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

マドリードからガリシアへ向かうA-6をベナベンテ(Benavente)あたりで少し外れ、ローマ時代の銀の道(Via de la Plata)に沿ってラ・バニェサ(La Bañeza)に向けて北上すると、オルビゴ川の河畔に豊かな田園が広がります。

この地の城塞が最初に史料に現れるのは931年。ただし、その後、アリハはポンセ家、キニョネス家、ベナベンテ伯爵家(ピメンテル家)、インファンタード公爵家と領主が変わり、お城もそのたびに改築が重ねられてきました。

広場に面した城壁の銃眼から覗いた中庭。正面に「ポンセ宮殿」の塔。
ピメンテル家の城  Castillo de los Pimentel

現存するお城は、古い城塞の跡に、15世紀から16世紀に建てられたもの。築城主は、お城の呼称にあるように、ピメンテル家(ベルナルディーノ・ピメンテル)とする説と、もう少し後の時代、村の名前にあるように、インファンタード公爵(イニゴ・ロペス・デ・メンドサ・イ・ピメンテル)とする説があります。

ピメンテル家はポルトガルに起源をもつ亡命貴族の一族。14世紀後半、ポルトガル北東部、スペイン国境に近いブラガンサに所領を持っていたフアン・アルフォンソ・ピメンテルは、時のポルトガル王フェルナンド1世の妃の妹フアナ・テジェスと結婚していました。フェルナンド1世が亡くなると、フアン・アルフォンソは、フェルナンド1世の娘ベアトリスが結婚していたカスティージャ王フアン1世のポルトガル王即位を支持します。しかし、ポルトガルのスペインへの併合には抵抗が大きく、結果的にフェルナンド1世の異母弟ジョアン1世が1385年アビス朝を開き、ポルトガルの王位をめぐる争いは終結(この辺の経緯は、バレンシア・デ・ドン・フアン参照)。フアン・アルフォンソははじめ、新しい王に忠誠を誓いますが、のちにカスティージャに亡命し、カスティージャ王フアン1世の子エンリケ3世の家臣に。エンリケ3世は、フアン・アルフォンソにベナベンテ(サモラ北部)の所領と伯爵位を与えました。これが、カスティージャにおけるピメンテル家の始まりです。その後の経緯はベナベンテで。

お城はほぼ正方形の城壁に囲まれ、城壁内部にかつての宮殿の一部だった塔が遺っています。城壁は角にどっしりとした円塔と、円塔に挟まれた壁面の中央に矩形の塔が張り出しています。かつては合計13の塔が建っていたのだとか(今数えると、円塔と矩形の塔をあわせて7つ)。

広場とは反対側の城壁。城壁の中に宮殿の塔が見える。

他の多くの城と同じように、19世紀初頭の対仏独立戦争で、このお城も大きな被害を受けました。ただし、このお城を破壊したのはナポレオン軍ではなく、ポルトガルから上陸し、フランス軍を撃退すべくスペインに進軍したイギリス軍でした。アリハの城は1887年にも大きな火災にあい、大きな被害を出したとのこと。

村の教会。建築素材はお城と同じ。
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

参考WEB

ビジャヌエバ・デ・ハムース Villanueva de Jamuz

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

ベナベンテからアストルガに向けて、点在する城を探しながら銀の道を北上していくと、ビジャヌエバ・デ・ハムスの村でまず最初に見えるのが、村はずれにあるキニョネス家のお城です。15世紀に建設されたお城は、大きな円塔が特徴。ドン・キホーテにも出てくる実在の騎士スエロ・キニョネスの所領でした。

銀の道(Via de la Plata)を北上すると、ビジャヌエバ・デ・ハムースで最初に見えてくるのが、このお城。
Castillo de Quiñones キニョネス家の城

15世紀初め、ディエゴ・フェルナンデス・デ・キニョネスマリア・デ・トレド夫妻により建設されたお城です。キニョネス家は、レオンのキニョネス・デル・リオにルーツを持つ貴族。ディエゴ・フェルナンデスは、フアン2世の治世で富を築き、「El de la Buena Fortuna」とも呼ばれました。ディエゴは、妻マリアの死後、ビジャヌエバは次男スエロ・キニョネスが相続するよう遺言しますが、スエロも、マリアの死後たった1年で、決闘で受けた傷がもとで死んでしまいます(1458年)。それでも、スエロの足跡は城にもちゃんと遺っており、入口の上にある騎士の紋章はスエロのもの。”Honor o Fin”「名誉か死か」との銘も刻まれています。

本物の騎士のお城

ところで、騎士だったスエロは、「オルビゴ橋でなし遂げた馬上槍試合の偉業」[セルバンテス『ドン・キホーテ』牛島信明訳、前編〈三〉P315より] で有名な人物です。彼は1434年7月に1か月間、カスティージャ王フアン2世の許可を得て、サンティアゴ巡礼路にあるオスピタル・デ・オルビゴ(Hospital de Órbigo)でオルビゴ川にかかる橋に陣取り、思いを寄せる貴婦人の名誉にかけて、橋を通ろうとする騎士に馬上槍試合を挑んでいました。1997年から、この同じ場所で、毎年6月第一週末に中世の槍試合が再現されています。

そして、スエロを死に追いやったのは、グティエレ・デ・キハーダという騎士。こちらもドン・キホーテが「勇猛果敢な…グティエレ・キハーダ(実を言えば、拙者もこのキハーダ家の男子直系の血をひくものでござるが)[牛島信明訳『ドン・キホーテ』より]」と言っていた人物です。グティエレもオルビゴ川の橋での決闘に挑んだ騎士の一人でした(この時、直接は対戦せず)が、グティエレとスエロの間には所領をめぐる争いが背景にあったとみられており、それが、後年の死に至る争いに発展したようです。

スエロの死後、城は息子ディエゴが継ぎますが、彼のいとこでラグーナ・デ・ネグリージョ(Laguna de Negrillo)の城を持つルナ伯爵がビジャヌエバ奪取をもくろみ、近くのサンタ・エレナ村に城の建設をはじめました。そればかりか、アリハ(Alija del Infantado)のペドロ・ピメンテルもこの城を狙っていたとか。ディエゴはカトリック両王に窮状を訴え、その庇護を仰ぎました。

ビジャヌエバの城は、ラグーナ・デ・ネグリージョの城とよく似ています。建設したのはどちらも前述のディエゴとマリアのキニョネス夫妻。さらに実際に城の建築に当たった職人も同じであったと考えられています。

ビジャヌエバはラグーナよりも遅くに建設されており、大きく頑丈な円塔が特徴的。大砲用の銃眼も造られていました。また、現在も遺るお城の周囲に、もう一周、城壁が巡らされていました。

入口の反対側に矩形の主塔(Torre de Homenaje)
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

フリアス Frías

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

村のはずれに立つ岩山の頂に、村の上に張り出すように建つお城。今にも家々の上に落ちてきそうです。実際に、過去には、城からの落石で命を落とした人もいたそうです。

城の入り口は、この塔の反対側にあります。村からは上り坂ですが入り口付近は平らなので、こちら側の警備は厳重でした。お城に入るには、跳ね橋を通って堀を渡ります。跳ね橋を渡ったら左に曲がり、堀沿いの外壁と城塞に挟まれた細い通路を進み主要門へ。主要門を入ったら今度は右に曲がって初めて城内に入ることができます。城に入るまでの間、跳ね橋のアーチの上から、通路の両側の城壁の上から、主要門の塔の上から、絶えず監視の目が光っていたわけです。

城内は不規則な四角形。入口から見ると正面に、先ほど村から仰ぎ見ていた主塔が建っています。主要門から見て左側の壁には二重アーチ窓が三つ並んでおり、騎士や神話上の動物(ハルピュイア:鷲のからだに女性の頭を持つ怪物)をモチーフとした装飾が美しいロマネスクの柱頭が、武骨な要塞建築の中で異彩を放っています。おそらくこの部分が城の最古の部分。城主の住居があった場所と思われます。反対側の壁沿いには兵舎や厩舎がありました。

柱頭の装飾が美しい二重窓

フリアスが史料に現れるのは9世紀。エブロ川上流域のレコンキスタが完了しキリスト教徒の村々ができていた頃。ナバラ、レオン、カスティージャを統一したナバラ王<大王>サンチョ3世(在位1000-1035)の死後、3人の息子たちが王国を分割相続すると、フリアスはナバラ領となりましたが、1054年にアタプエルカ(ブルゴス県)の戦いでカスティージャ王フェルナンド1世がナバラを退け、以後、カスティージャ領に。とはいえ、その後もしばらくはこの辺りでは、ナバラとの国境争いが続きます。

フリアスが繁栄したのは、カスティージャ王アルフォンソ8世(在位1158-1214)の時代。これまでメリンダデスと呼ばれるこの地方の行政の中心はペララダ城(1140ナバラ王による建設)でしたが、アルフォンソ8世がその役割をフリアス城に与え、防衛上もここを拠点としました。

現存する城の最古の建築部分はこのころの建設と考えられています。アルフォンソ8世は、ナバラ王国との国境線を防衛するために、近くのメディナ・デ・ポマールなどと併せて防衛ラインを築こうと、再植民に力を入れます。

このころ城塞主は世襲制ではなく、あくまでも王から任命されるものでした。フリアスの近くオニャの修道院長が、フリアス城塞主の横暴な振る舞いに対して、王に苦言を呈したという記録も遺っているそうです。しかし、レコンキスタの進行やキリスト教国間の国境の移動や消滅などによって、防衛上の重要地点が変化したり、貴族の力が強くなってくると、王は城塞を含めて所領を家臣に与えるようになり、貴族が所有する城が増えていきます。特に、14世紀のカスティージャ王位をめぐる内戦はその傾向に拍車をかけました。フリアスもその一例です。

1394年カスティージャ王エンリケ3世は、フリアスをディエゴ・ロペス・デ・スニガに与えるも、2年後にベハル(サラマンカ県)と引き換えにフリアスを取り戻し、「今後、いかなる王もフリアスを他の者に与えることはできない」という勅令を出しました。にも拘わらず、1446年息子のフアン2世はフリアスをペニャフィエル(バジャドリード県)と引き換えにペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの父親。メディナ・デ・ポマール参照)に与え、フリアスの城は決定的に王権を離れます。これまで特別法を享受していた村人たちは、新しい城主に過酷な納税を要求されることを恐れ、その入場を阻止しようと蜂起!しかし、強大な軍事力を持つ大貴族が相手では、その顛末は明らかなこと。結局、包囲戦の末、降伏を余儀なくされました。この戦いの様子は現在でも「フィエスタ・デ・カピタン」と呼ばれる村祭りで語り継がれています。

この戦いの中で元からあった城塞はかなりの被害を受けたのか、ペドロ・フェルナンデスは直ちに城を修復。入口付近の外堀や二重の城壁、主要門のある塔などを新たに建設しました。村の上に張り出す主塔も15世後半の建設。村人たちに権威を誇示しています。

その後、ベラスコ家はカトリック両王の時代にフリアス公爵位を授かるなど、隆盛していきますが、フリアスは16世紀にコムニダーデスの乱に巻き込まれ、17世紀にはペストにより人口が激減。歴史の表舞台から姿を消していきます。

フリアスのもう一つの象徴は、エブロ川にかかる美しい橋。満々と水をたたえて地中海に流れ込むエブロ川ですが、フリアスではまだ生まれたてです。橋の本体は12世紀のロマネスク建築。橋の中ほどに建つ塔は14世紀のゴシック建築です。塔の上部には鋸壁や石落としもあり、なかなか強固な警備体制だったことがうかがえます。ラス・メリンダデスと呼ばれるこの地方から、南のブレバ地方(ブルゴス県)や東のリオハ方面に向かうためにはこの塔で橋通行税(Pontazgo)を払わなければなりませんでした。

お城から橋を眺めて…

おすすめルートは、ポサ・デ・ラ・サル参照。

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カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世前期 中世後期 フリアス公爵

フエンテス・デ・バルデペロ Fuentes de Valdepero   

カスティージャ・イ・レオン州パレンシア県

パレンシアから車で15分ほど北上すると、フエンテス・デ・バルデペロの村に、存在を誇示するかのように、どっしりとした構えのお城が見えてきます。もとは、もっとスマートなお城だったのですが、これほど大きくて重たい印象を与えるお城に生まれ変わったのには、悲しい理由があるのです。

サルミエント城 Castillo de Sarmiento

フエンテス・デ・バルデペロが再植民されたのは10世紀のこと。カスティージャ伯のフェルナン・ゴンサレスの子、ペドロ・デ・パレンシアの手によりました。この頃には何らかの城塞が建設されたようです。その後、ペドロ・アンスレス(バジャドリードの創設者)、カストロ家などの手を経て、14世紀にサルミエント家の所領に。

現存する城はサルミエント城と呼ばれます。15世紀半ば、フエンテス・デ・バルデペロの領主だったディエゴ・ペレス・サルミエントに、カスティージャ王フアン2世がサンタ・マリア伯爵の称号を与えました。サルミエント城の築城はこのころ。1465年ごろまでに建設されました。当時のお城は、現在のものよりもずっと華奢な主塔と、城壁に囲まれた「武器の中庭(Patio de armas)」がある、バジャドリードを中心にカスティージャによくある形のお城でした。(バジャドリード派のお城:トーレロバトン、フエンサルダーニャ、ペニャフィエル、ポルティージョ、ビジャロンソ etc.)

そんなお城の姿を一変させたのが、16世紀。ディエゴ・ペレスの孫娘コンスタンサの子、アンドレス・デ・リベラによる改築。きっかけとなったのは、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に不満を持った諸都市が結集して蜂起した、コムニダーデス(自治都市)の乱でした。

コムニダーデスの乱

1520年5月にトレドで始まった反乱は、主にカスティージャの諸都市を巻き込み大規模な戦役に発展(参照:メディーナ・デル・カンポ)。しかし、コムネロス(自治都市の人々)たちがフアナ女王のいたトルデシージャスを失うと、形勢は国王軍に傾きます。こうした中、サモラ司教だったアントニオ・アクーニャが、ほぼ全員が聖職者だったという自軍を駆使して、バジャドリードからパレンシアにあった国王派の領主たちの城を次々に襲いました。そのうちのひとつが、フエンテス・デ・バルデペロです。

1521年1月、フエンテス・デ・バルデペロにコムネロス軍が襲い掛かります。大砲攻勢を前に城は大きな被害を受け降伏。城は略奪され、城主一族は捕らえられて投獄されてしまいました。同年4月にビジャラールの戦いでコムネロス軍が破れ、反乱が鎮圧されると、城は返還され、アンドレス・デ・リベラも解放されます。

お城の改築

解放されたリベラは、さっそく城の再建に着手しますが、この時の主塔の改築がすごかった。彼は獄中で食べ物にも事欠くような散々な扱いを受けていたと伝えられています。この経験がよほど大きなトラウマとなったからなのか、大砲にもびくともしない難攻不落の城を造りたかったらしいのです。リベラは、破壊された城壁や東側の二つの円塔を再建するなど城の修復を行うとともに、主塔の周囲に分厚い壁を増築しました。その厚さたるや、場所によっては11メートルに達するというもの。現在のどっしりとした城はこうしてできあがりました。

しかし、おそらく改築工事が終わる前に、アンドレス・デ・リベラは城を売却。その後、相続や婚姻などにより城主が何度も変わりました。20世紀、廃墟となっていた城をパレンシア県が買い取り、修復を経て一般に公開されています。

階段を上がり降りして、塔の屋上や武器の中庭を囲む城壁上の回廊から、カスティージャの広大な風景を見渡したり、暗い牢獄に降りてみたり…、見学はなかなか楽しいのです。主塔には、11メートル!!の壁に窓が開いているので、中からその壁の厚さが実感できます。

パティオには、主塔の向かい側の城壁に沿ってサルミエント家の宮殿部分があり、2階建ての回廊もありましたが、廃墟となっていた19世紀末に崩落。現在は歴史資料館が造られています。回廊を飾っていた欄干や円柱は、村の教会(Iglesia parroquial Nuestra Señora de la Antigua)の聖歌隊席などに利用されています。

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カスティージャ・イ・レオン州 パレンシア県 中世後期 バジャドリード派 コムネロス

参照WEB