ラ・アラメダ城―マドリード El Castillo de la Alameda-Madrid

マドリード州

マドリード市内、オスーナ公爵家の別荘跡エル・カプリーチョ庭園(Jardín de El Capricho de Alameda de Osuna)のすぐ近く、住宅街に遺るこじんまりとした城跡です。15世紀に建設されたお城が、16世紀に邸宅に。この改築時に、お堀がルネサンス庭園になりました。

お城の下からは、紀元前2000年ころの集落跡が発掘されています。

お城への入り口付近から。
築城はメンドサ家―マンサナレス・エル・レアル

15世紀、この城を建設したのは、ラ・アラメダやバラハスを所領としていたディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサ(1367-1404/マンサナレス・エル・レアル参照)と考えられています。1400年ごろのこと。ディエゴは、2度の結婚のほか、いとこのメンシア・デ・アヤラと恋人関係にあり、遺言で、彼女にこの二つの所領を与えました。ディエゴの死後、メンシアは1406年にルイ・デ・サパタと結婚し、こうして、ラ・アラメダ城もサパタ家の所領に。サパタ家はアラゴンに起源をもつ貴族です。16世紀になると、フェリペ2世がフランシスコ・サパタ・デ・シスネロス(母はシスネロス大司教―カトリック両王の時代に政治的・宗教的に大きな影響力を持った―の姪マリア・シスネロス)にバラハス伯爵の称号を与えました。高い地位を得たフランシスコは、ラ・アラメダ城を宮殿風に改築します。

お堀はルネサンス庭園

この改築の目玉は、城を囲むお堀。こじんまりとしたお城の割に堀は大きく、最大幅12メートル、深さ6メートルにも及びます。そして、目を引くのは、バットレス(控え壁)が連なる石造りの壁。これは珍しいお堀だな~と、思っていると案の定、もともとは下に行くほど厚みを増すもっと武骨な壁だったものが、16世紀に現在のように改築されていたのです。お城を宮殿に改築するにあたり、堀のスペースを広げるために外側の壁の厚みを削ってほぼ垂直にし、石をモルタルで固めた壁をバットレスで補強した現在の姿になりました。当時はさらに、バットレスの上にアーチが並んでいたと考えられています。

お堀。左側の壁はバットレス(控え壁)で補強されている。

こうして拡げられた堀は、宮殿を取り巻く庭園に。城本体の北東面に庭園への出入り口が開けられ、堀は噴水や花壇で飾られました。発掘調査では、噴水や花壇の跡に加えて、杉やくるみなどさまざまな樹木、バラ、チューリップ、ハスなどの花々のほか、キャベツ、豆類などの花粉や種も確認されており、実用的な役割も果たしていたことがわかっています。宮殿の庭園はこの堀だけではなく、城の南側、現在は住宅地となっているところには、大きな池もあったとのこと。

この城の建設には全体的に、この辺りで豊富に産出されたシレックス(硅石、フリント)石が使われており、その透明感のある白い色は、きっと庭園に上品な華やかさを醸していたことでしょう。

小さいお城

お城の本体は正方形で、西の1画に主塔、その対となる東の1画に円塔があります。その周りを4隅に円塔のある城壁が巡り、さらにその周りに前述の堀が巡っています。現在、遺っているのは、前述の堀と、お城本体の東から南の壁のみ。この壁を内側から見ると、かまどと煙突の跡が見えます。あとは、土台が遺っているので、大まかな造りを想像してみるのも楽しいです。

内戦の爪痕

お城の東側には内戦時(1936-39)のトーチカが保存されています。また、お城の壁にも内戦時に開けられた銃眼がいくつもあり、地下には避難壕が遺っています。

北アフリカでの蜂起後にマドリード征服を狙ったフランコ軍は、北から攻めるもマンサナレス川のあたりで足止めされていたため、バルセロナやバレンシアからマドリードへの物資の供給路を断ち切るため、南からマドリードへの進軍を試みました。こうして起こったのが、1936年2月ハラーマの戦い(マドリードから南南東約35kmほど)。内戦きっての激戦のひとつとして知られ、死者はフランコの反乱軍、共和国軍、両軍合わせて15000人に達したと言われています。この時、共和国軍下にあったこの地区には様々な軍事施設がつくられ、上記のトーチカなどのほか、近くのエル・カプリチョ宮殿にも避難壕が建設されました。こちらも見学が可能です。

参照WEB

モンテレイ Monterrey

ガリシア州オウレンセ県

プエブラ・デ・サナブリアからオウレンセに向かう途中、何キロも先から山の上にお城が見えてきます。中世からあった城塞が時代とともに増改築され、宮殿、教会、施療院などのある要塞都市といった様相となりました。

上の写真:最上部、一重目の城壁の中に、左から「モンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔 (Palacio del Conde de Monterrey con la Torre de las Damas)」、「サンタ・マリア・デ・グラシア教会 (Iglesia de Santa María de Gracia)」、奥に城塞の主塔(Torre de Homenaje) 。手前に2重目の城壁、その下に3重目の城壁が見える。

最上部にある城壁。奥にモンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔。
「王の山」モンテレイ

モンテレイが歴史に登場するのは10世紀、当時の名前は「Castrum Baroneceli」で、すでに何らかの要塞があったようです。この地方の有力者エルメネヒルド・グティエレスという人物の所領でした。エルメネヒルドの孫で後に聖別されることになるロセンドが10世紀、セラノバ(モンテレイから西に60kmほど)に修道院を建立すると、この地は修道院の所領に。彼らはローマ教皇庁も巻き込んで、この地が王領となり城塞をいただくのを阻もうとします。モンテレイは、カスティージャとガリシアをつなぐ交通の要所にあるうえ、12世紀にカスティージャから独立したポルトガルとの国境から近かったため、王たちは植民をし教会を建て…既成事実を作りながら、13世紀になってようやく、修道院領から独立した王の山(Monte de rey)「モンテレイ」を誕生させたのでした。その間にも、ポルトガル国境付近には、城塞や塔による防衛網が建設されていました。

ビエドマ家登場

14世紀になると、モンテレイの歴史にビエドマ家が登場。アルフォンソ11世の家臣であり、ガリシア前線総督。レモス伯爵(ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ)の宮宰(Mayordomo)でもあったルイ・パエス・デ・ビエドマがモンテレイの城塞主に。この人物が、モンテレイの城の建設にかかわっていたと考えられいます。1340年ごろの史料によると、王から複数の要塞の領有(Tenencia)を賜り、その中に「モンテレイの塔」も含まれているとのこと。

カスティージャ内戦…ちょっと長くなってしまいます…

14世紀、ペドロ1世とエンリケ2世の間の王位をめぐる内戦にも、モンテレイはドラマチックに登場します。ルイ・パエスを継いだフアン・ロドリゲス・デ・ビエドマははじめ、ペドロ1世に忠実な家臣でした。しかし、内戦終盤になるとエンリケ2世側に寝返り、これがガリシアにおけるペドロ1世派の抵抗が潰えた一因となります。

1366年、王国のコントロールを失ったペドロ1世は、ポルトガルのチャベスからモンテレイへ。ペドロ1世はここで、内戦を通じてペドロ1世に忠実だったレモス伯爵フェルナンド・デ・カストロに会い、ナバラ王やランカスター公に救援を求める手紙を送ると、コルーニャから海路バイヨンヌへ向かいます。他方、フェルナンド・デ・カストロはガリシアでエンリケ派に対する反乱を起こします。ガリシアの貴族の多くがフェルナンド・デ・カストロの下に結集しますが、モンテレイのビエドマはエンリケ支持を保ち、ペドロ派の攻撃に屈しませんでした。この時は、ペドロ1世とランカスター公の連合軍進攻の知らせを受けたエンリケ2世はガリシアを捨て、ナヘラの戦いでの敗戦を経て、一時期アラゴンに避難しますが…。

しかし、結局、1369年年にモンティエルでエンリケ2世がペドロ1世を殺し内戦は終結します。これを受けて、カスティージャ王位を狙うポルトガルのフェルナンド1世はガリシアに進軍。この軍にフェルナンド・デ・カストロや最後までペドロ1世に忠実だったメン・ロドリゲス・デ・サナブリアも加勢し、モンテレイを奪回すると、1371年まで、モンテレイはポルトガルが堅持していました。1371年、カスティージャとポルトガルが和平を結び、ポルトガル王フェルナンド1世とエンリケ2世の娘レオノールの婚約が成立。モンテレイはレオノールの持参金(Dote)に含まれる予定でした。しかし、この婚約は破棄され、和平も決裂。モンテレイはエンリケ2世の手に渡ります。メン・ロドリゲス等はしばらくガリシアで抵抗を続けますが、結局、西葡和平でペドロ派は国外退去を言い渡され、バイヨンヌ、あるいはポルトガルへ。

この後は、いつもの通り…フアン1世がディエゴ・ロペス・デ・スニガにモンテレイを授け、その子にモンテレイ子爵の称号を与えます。その後、カトリック両王がサンチョ・サンチェス・デ・ウジョアにモンテレイ伯爵の称号を授けました。モンテレイは婚姻関係により、スニガ家、ウジョア家、アセベド家…、と領主が変わっていきました。

最上部の城塞都市

城塞で突出するのは高さ22mの主塔(Torre de Homenaje)。「ドン・サンチョの塔(Torre de Don Sancho)」とも呼ばれます。入口は2階の高さにあり、入るには跳ね橋が必要でした。1482年、1代目モンテレイ伯爵サンチョ・サンチェス・デ・ウジョアによる建設(入口の上部の石にその旨が記されています)。ではあるのですが、大部分は、モンテレイから南に7kmの場所にあった別の城塞から移築されたものだそうです。この部分では、切石に刻まれた無数のシンボルも目を引きます。これは建設時に石工たちが記したサイン(仕事の対価を計算するのに必要でした)。

もう一つの塔、宮殿にある「貴婦人の塔」は、14世紀に建設された古い要塞の塔が、16世紀末、伯爵宮殿建設の際にここに取り込まれたものと考えられています。その伯爵宮殿は16世紀から17世紀に建設されたルネサンス宮殿。華奢な柱に支えられたアーチが連なる繊細で優雅なファサードが印象的です。宮殿の西側は、城壁の一部となっています。

武器の広場から見た伯爵宮殿

サンタ・マリア・デ・グラシア教会は、13世紀の建設。アルフォンソ10世の庇護のもとセラノバの修道院が建立したもの。ロマネスクのシンプルな建物ですが、豊かな装飾が施されています。ティンパヌムや柱頭などの彫刻は造詣がかわいらしい💓

後陣部分の窓は、様々なシンボルで飾られており、中にはダビデの星(六芒星)もあります。モンテレイには中世にユダヤ人共同体が存在し、ユダヤ人墓地も発掘されています。

教会内では、花崗岩に彫刻されたロマネスクのレタブロ(祭壇背後の飾り壁)が秀逸。キリストの受難を表しています。(私は見ることができませんでした😢 写真は下のWEBで。)

対ポルトガル

16世紀末、フェリペ2世がポルトガル王位を継いだため、しばらくは西葡国境は消滅していましたが、1640年、カタルーニャに次いで、ポルトガルでもカスティージャに対する反乱が起こります。

モンテレイでは、フェリペ4世が城の近代化を命じ、中世の城壁の南北面に稜堡(死角をなくすため城壁から突出して建設された部分)が増築され、周囲に大砲用の銃眼のついた城壁を建設。これら城全体を囲んで、さらに外側に稜堡付きの城壁が巡らされました。稜堡に「1664年、フェリペ4世の治世に建設」と彫られています。

広大な敷地内にはイエズス会の修道院とフランシスコ会の修道院がありましたが、どちらも18世紀から19世紀に放棄され、建物はベリンの町の道路などの建設素材として使われました。

メキシコのモンテレイ

メキシコ北部の町モンテレイの名前の由来は、このモンテレイ。16世紀、モンテレイで生まれ育った(後述のイエズス会の学校で教育を受けた)第5代モンテレイ伯爵ガスパール・スニガ・アセベドは、フェリペ2世によりヌエバ・エスパーニャ副王に任命され、メキシコに赴きました。当時スペインはメキシコの北へと支配地を広げており、新しく建設した町を副王にちなみ「モンテレイ」と名付けたのでした。

2つのパラドール

① 2015年、伯爵宮殿はパラドールとしてオープンしました。ガリシア州がパラドールに75年間、使用権を譲渡する形でオープンにこぎつけた宿泊施設でしたが、もともとお城は文化施設として利用される予定だったことから、お城のあるベリンの住民からは反対の声が上がり、係争の末、パラドールは一時閉館に追い込まれました。

② モンテレイ城の向かいの丘には、1967年にオープンしたベリンのパラドールがあります。この場所には、16世紀から1768年(イエズス会追放令の年)までイエズス会の学校がありました。1590年ごろ在校生は1200人にのぼったとの記録もあるそうです。ただし、当時の建物は残っておらず、パラドールがあるのは後年に建設された、ガリシアで「パソ」と呼ばれる邸宅風の建物。緑豊かなガリシアの風景の中に建つお城を眺めながら過ごすのも、一興かも。(年に数回の閉館期間があるのでご注意を)

① Parador Castillo de Monterrei
Castillo de Monterrei, s/n 32618 Monterrei (Ourense)
+34 988 02 92 30
monterrei@parador.es

② Parador de Verín
Subida a Monterrei, s/n 32600 Verín (Ourense)
+34 988410075
verin@parador.es
年に数回、閉館期間があるのでご注意を。
WEB

カラトラバ・ラ・ヌエバ Calatrava la Nueva

カスティージャ・ラ・マンチャ州シウダ・レアル県

カラトラバ騎士団の要塞修道院。1212年のナバス・デ・トロサの戦いの直後に建設されました。要塞の壮大さもさることながら、教会のファサードを彩る赤い火山岩のバラ窓が圧巻!

カラトラバとは

シウダ・レアルの近く、カリオン・デ・カラトラバ村から北に5kmほど行くと、カラトラバ・ラ・ビエハ(旧カラトラバ)という要塞都市の跡があります。史料に初めて現れるのは8世紀の終わり、イスラム勢力がイベリア半島に上陸してからほどなくして建設されたようです。カラトラバの語源はアラビア語の「カルアト・ラバーフ」。「カルアト」はスペインの地名によく出てくる「アルカラ(=アル・カルアト)」の語源にもなっており、要塞、お城の意味。「カルアト・ラバーフ」はラバーフ要塞といったところでしょうか。ラバーフは人名から来た呼称と考えられています。つまり、異教徒と戦うためにできた騎士団の名称が、その異教徒の言語を起源に持っていた、というわけです。

カラトラバ騎士団の誕生

1085年、カスティージャ王アルフォンソ6世がトレドを征服すると、旧カラトラバをはじめこの地方の要塞はカスティージャ王国が支配。しかし、すぐにモロッコから上陸したムラービト朝に再征服されてしまいます。12世紀半ば、アルフォンソ7世がこの地方を再び占領。1150年、旧カラトラバ防衛のために、王はこの要塞をテンプル騎士団に与えました。ところが、イスラム勢力の脅威は衰えるどころか増すばかり。またもやモロッコから上陸したムワッヒド軍の勢いを前に、旧カラトラバの防衛は不可能と考えたテンプル騎士団は、これをアルフォンソ7世を継いだサンチョ3世に返還しました。

旧カラトラバを失うと、トレドが危険にさらされることになります。サンチョ3世は、旧カラトラバを守る気概のある者にこの要塞を与えることを決め、貴族たちを集め希望者を募りました。ここで手を挙げたのが、シトー会に属するサンタ・マリア・デ・フィテロ修道院(ナバラ)の修道長ライムンドとディエゴ・ベラスケスという名の修道僧でした。

ライムンドとベラスケスは、サンチョ3世から旧カラトラバをもらい受け、大勢のシトー会修道士を伴って、旧カラトラバへ。その数、2万人ともいわれます。この大軍の勢いのおかげで、当面は旧カラトラバを死守。しかし、ディエゴ・ベラスケスが死去すると、修道士と騎士からなるグループは求心力を失い、修道士たちはシルエロスの修道院へと去っていきました。後に残った騎士たちは、1164年、初代総長にガルシアなる人物を選出し、こうして、カラトラバ騎士団が誕生。

ところが、1195年、ムワッヒド軍はアルフォンソ8世のカスティージャ軍をアラルコスで破ると、その勢いで旧カラトラバも占拠してしまいます。カラトラバの騎士たちは、サルバティエラ(カラトラバ・ラ・ヌエバのすぐ近く。お城からも見えます)を占拠してここに拠点を置き、しばらくは「サルバティエラ騎士団」と名乗っていました。イスラム勢力支配地で孤軍奮闘していたキリスト教徒の牙城サルバティエラですが、1211年、51日間の包囲戦の末ムワッヒド軍に降伏。翌年のナバス・デ・トロサ以降も、サルバティエラはしばらくイスラム教勢力下にありました。カスティージャ軍による再征服は1213から1215年のこと。

カラトラバ・ラ・ヌエバの要塞修道院

現在、カラトラバ・ラ・ヌエバと呼ばれる場所には、その前にドゥエニャス城という要塞があり、それはヒロン家の所領でした。1197年、ロドリゴ・グティエレス・ヒロンが、その半分をカラトラバ騎士団に寄進し、のちに、彼らの子供たちが残る半分を騎士団に売却。1201年にアルフォンソ8世が、カラトラバ・ラ・ヌエバに対する騎士団の権利を承認し、この地はカラトラバ騎士団の所領となった。という説が有力ですが…ロドリゴがドゥエニャス城をカラトラバ騎士団に寄進したことは確からしいのですが、そのドゥエニャス城が現在のカラトラバ・ラ・ヌエバにあったのかどうか、には異論があるようです。

1212年、有名なナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教諸国の連合軍がムワッヒド軍に勝ち、以降、シエラ・モレナ以北のキリスト教勢力の覇権が確立します。現在のカラトラバ・ラ・ヌエバの要塞―修道院は、この戦いの直後、2013年から建設が始まったものと考えられています。建設作業には、ナバスで捕らえられたイスラム教兵士たちが使われたとのこと。

二重、場所によっては三重の城壁に囲まれた広大な敷地には、中央のひときわ高い場所にお城、その隣りの一段低いところに教会や回廊を含む修道院、お城の周りに粉引場や台所など生活施設、少し離れて宿泊施設があり、まさに要塞修道院という様相。また、城塞に囲まれた広大な敷地には、家や通りのある村のような場所があり、そこに騎士や修道僧たちが住んでいました。ただし、その後すぐに、アルマグロ(Almagro)に騎士団長の館が置かれ、騎士団全体の政務はこちらで行われていました。

お城は狭い空間に塔が並び、塔の中のレコド(かぎ状に曲がった通路)や階段を通りながら、4階建ての屋上まで登ることができます。

教会はロマネスクからゴシックの過渡期の建設。ファサードには、まるでお城の小塔のようなバットレス(控え壁)に挟まれて、入り口の上に赤い火山岩で造られた大きなバラ窓があります。これは15世紀末から16世紀初頭のもの。1755年のリスボン地震の際に残念ながらステンドグラスは割れてしまいましたが、この地震で教会本体が倒壊しなかったのは、火山岩が使われていたため、とのこと。

とはいえ、この地震の被害は大きく、さらに19世紀には教会財産の没収政策の影響もあり、カラトラバ・ラ・ヌエバは放棄されていきました。

ちなみに…

1476年、ローマ教皇の勅書によりカトリック王フェルナンドが、スペインに本拠を置く騎士団の総長に任命され、以来、現在に至るまで、スペインの騎士団(カラトラバ、アルカンタラ、サンティアゴ、モンテサ)の総長はスペイン国王です。16世紀、フェリペ2世は、イサベル・デ・ヴァロアとの結婚後、新婚旅行にこのカラトラバ・ラ・ヌエバを選び、これを機に、要塞への入口へと至る道が整備されました。

おすすめルート

シウダ・レアル(Ciudad Real)

   ↓17km

カラトラバ・ラ・ビエハ(Calatrava la vieja)かつての要塞都市から遺っているのは城塞の一部のみですが。

   ↓62km(約1時間)

カタトラバ・ラ・ヌエバ

   ↓33km

アルマグロ(Almagro)13世紀からカラトラバ騎士団の総長が住む館がありました。現在の建物はつい最近まで増改築が重ねられてきましたが、ムデハル様式の影響がみられるパティオには、アラブやゴート時代の建築素材も使われているとのこと。現在は演劇博物館となっています。また、アルマグロは17世紀の劇場(Corral de las comedias)でも有名。毎年、演劇祭が開催されています。

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カスティージャ・ラ・マンチャ州 シウダ・レアル県 中世前期 中世後期 騎士団

モントゥエンガ・デ・ソリア Montuenga de Soria

カスティージャ・イ・レオン州ソリア県

マドリードからサラゴサへ向かう途中、カスティージャとアラゴンの境界、ハロン川流域に建つお城。赤みの強い石の色が印象的です。塔には上から下まで大きな亀裂が走り、今にも真っ二つに割れてしまいそう。

パディージャ家の城?

「パディージャ家の城」とも呼ばれているので、カスティージャの貴族パディージャ家のものであったと思われますが、いつだれが築城したのか…(手持ちの資料では分からず。調べがついたら更新します)。

海抜約900m。村から見上げる岩山の頂上に、その細長い地形を利用して、マンポステリア工法と、角に切り石積みを組み合わせて建設されています。城の両端に塔があり、この二つの塔をつなぐように、城壁が築かれていました。現在はどれも部分的にのこっているだけですが。

カスティージャとアラゴンの間で

ハロン川流域は半島中央からサラゴサへと向かう、交通の要所となるとともに、カスティージャ王国とアラゴン王国の国境を形成し、しばしば両王国の戦いの場となっていました。メディナセリ(Medinaceli)から、モントゥエンガ、ソマエン(Somaén)、アルコス・デ・ハロン(Arcos de Jalón)、マンテアグード・デ・ラス・ビカリアス(Monteagudo de Vicarias)、ラ・ラジャ(La Raya)と、比較的小さな間隔で城や塔が建っているのはこのためです。特にラ・ラジャは、常にカスティージャとアラゴンの境界だったため、争いが絶えなかった一方、ラ・ラジャのお城の麓にある小さな教会(Ermita de Nuestra Sra. de la Torre)はちょうど国境線上にあったため、この教会で洗礼を受けた者は、カスティージャとアラゴンの両者のフエロ(特別法)が適用されたのだとか。

お城の将来

現在は、個人所有です。浸食の激しい土台となっている岩山と、今にも崩れ落ちそうだった塔や城壁は補強され、今後、この場所に住居を建設する計画とのこと。この計画は、お城の保存と景観の維持のため、カスティージャ・イ・レオン州が監督しているそうです。

元のお城から半分以上は失われてしまっていますが、高台に建つ城のシルエットはとてもカッコいいうえ、塔に縦に走る亀裂が強烈で、妙に惹かれるお城です。もうずいぶん前に立ち寄ったのですが、きれいに修復されて博物館になっているお城よりもはるかに記憶に残っています。今後、どのような姿になるのか、興味深いとともに、少々怖い…とはいえ、あのままではいつか塔は崩れ、跡すらなくなってしまいますね。それはそれで、詩的でいいんじゃないか…と、思わないでもないのですが。

WEB

グラナディージャ Granadilla

エクストレマドゥーラ州カセレス県

中世には「グラナダ」と呼ばれていた村。アルアンダルス(イスラム教勢力下)では北のキリスト教勢力からの圧力に耐え、レコンキスタの過程ではレオン、カスティージャ、ポルトガルの国境となり、各時代に重要な役割を与えられていました。城壁は古く、9世紀ごろに建設され、時代ごとに改築・増築されて現在に至ります。お城は、16世紀に1代目アルバ公爵が古い城塞跡に建てたもの。イタリア建築の影響が見られるスマートなお城です。20世紀中ごろ、ダム建設により廃村に。水没は免れ、美しく修復されてはいるものの、帰りたくても帰れない人々がいるというのは、やはり悲しい…。(上の写真は、ダム湖を背景にしたお城)

元祖グラナダ!! 

中世、この村は「グラナダ」と呼ばれていました。8世紀から12世紀前半はイスラム教勢力下で、12世紀から13世紀初頭は、レオン王国、カスティージャ王国、ポルトガル王国の国境近くで、時代ごとに重要な役割を与えられていました。その後、レコンキスタが進み、カスティージャとレオンの国境が消滅するとともに、グラナディージャの軍事的重要性は低下しますが、それでも、この地方の中心的な村となっていました。1492年にカトリック両王を前に、ナスル朝のグラナダが陥落しカスティージャ領となると、こちらの「グラナダ」は「グラナディージャ」(Granada+指小辞のillaで、小グラナダ)に。ただし、公的な文書に「グラナディージャ」として現れるのはずいぶん後になってからのことです。

レオン王国VSカスティージャ王国

1157年、レオン王国とカスティージャ王国が分裂すると(この経緯はティエドラ城で)、グレドス山脈以南の境界線はほぼ銀の道(Via de la Plata )に沿って決められました。1160年、レオン王フェルナンド2世がイスラム教勢力下にあったグラナディージャを征服。再植民をし、城壁を建設し、1170年に「Villa」の称号を与えました。1191年、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世がサンティアゴ騎士団に寄進(同じころ、アルフォンソ9世はポンフェラーダをテンプル騎士団に寄進しています)。この時、グラナディージャを中心にいくつもの領地がサンティアゴ騎士団に与えらえました。再植民を活性化するため、あるいは、ムワッヒド朝やポルトガル、カスティージャの脅威に備えるため、などの理由が考えらえます。

グラナディージャはだれの手に…

その後、再び王領となったグラナディージャは、1282年にカスティージャ王アルフォンソ10世が、息子のペドロ親王に与えますが、ペドロ親王の死後グラナディージャを継いだサンチョが子どもがないまま死去すると、再び王領(フェルナンド4世)に。次は、アルフォンソ11世が子のサンチョ・デ・カルバハルに与え(ポルトガル王ペドロ1世とイネス・デ・カストロの娘ベアトリスと結婚)、その娘レオノールがアラゴン王フェルナンド1世(カスティージャの王族、フェルナンド・デ・アンテケーラ)と結婚したため、その子エンリケの手に渡りました。アラゴン王フェルナンド1世の死後、カスティージャ王国に戻った子どもたちは、フアン2世と対立し、失脚。結局、フアン2世はエンリケから所領を接収し、グラナディージャは1446年に、アルバレス・デ・トレド家(アルバ公爵家)に与えられました。以降、18世紀まで、アルバ公爵家の所領でした。

アルバ公爵家の城

グラナディージャの城を建設したのは、1代目アルバ公爵ガルシア・アルバレス・デ・トレド・イ・カリージョ・デ・トレド。1473年から78年のことです。このお城がある場所には、イスラム教勢力下ですでに城塞が建設されていたものと考えられています。細い正方形の塔の各面に、壁から張り出すように半円の塔が配されています。上から見ると4枚の花弁がある花のような形で、イタリア建築の影響が見られるスマートなお城。螺旋階段を登って屋上に出ると、そこはダム湖と村を一望する素晴らしい展望台です。地下には牢獄と貯水槽も造られていました。

村から城への入り口

他方、村を囲む城壁の起源は9世紀ごろと考えられています。その後、様々な改築や修復を経て現在に至ります。

村を囲む城壁
廃村

1955年、フランコ政権下でたくさん建設されたダムのひとつ、ガブリエル・イ・ガラン・ダム建設のため、グラナディージャの村は国に接収され、人々は移住を余儀なくされました。しかし、グラナディージャは高地にあるため、ダム建設により水没したことは未だかつてないどころか、もともと水没する予定もなかったそうです。

1980年には村ごと文化財として指定されると、お城や城壁などが修復され観光地として生まれ変わりました。夏になると様々なイベントが開催されています。かつての住民の中には村への帰還を訴え続ける人々もいますが、許可が下りないのが現状です。村の中心部は家々が修復され、窓には花が飾られ、とても美しいのですが、生活感が感じられないからなのか、突然、人々が消えていなくなってしまったような、不思議な雰囲気でした。

1950年代までは人々が住んでいた村
おすすめルート

グラナディージャ

  ↓42km

プラセンシア(Plasencia)新旧ふたつのカテドラル、町を囲む城壁、水道橋、宮殿…見どころ満載。また、プラセンシアからマドリード方面に向かうラ・ベラ地方(Valle de la Vera)、アビラ方面に向かうヘルテ地方(Valle de Jerte)、サラマンカ方面に向かうアンブロース地方(Valle de Ambroz)はそれぞれにちがった魅力があって、どれもおすすめ。このうちグラナディージャから近いのはアンブロース地方のエルバス(Hervas)。栗の産地です。

  ↓47km

コリア(Coria)一代目アルバ公爵がグラナディージャと同じ時期に造ったお城があります。このコリアのお城の建設に携わったフアン・カレラが、グラナディージャの築城にも携わっていたと考えられます(個人所有のため、内部の見学は不可)。ローマ時代の城壁、カテドラル…こちらも見どころ沢山の美しい村です。

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エクストレマドゥーラ州 カセレス県 アルアンダルス 中世前期 中世後期 アルバ公爵

メディナ・デ・ポマール Medina de Pomar       

ブルゴス県メディナ・デ・ポマール

ふたつの大きな塔が特徴的な城塞宮殿。塔はそれぞれ15m四方、塔をつなぐ中央の建物は幅22m。塔の壁の厚さは2.5mもあります。重厚で威圧的な印象を与えるお城です。

メディナはアラビア語

スペインの地名によく現れる「メディナ」はアラビア語で町を意味する「マッディーナ」が語源。メディナ・デ・ポマール(リンゴの町?)は、「メディナ」と名がつく市町村の中では最も北にある町です。アラビア語起源の名前であるため、町もこの地方がイスラム影響下にあったころにできたとも考えられますが、町の誕生がいつだったのかはわかっていません。

カスティージャ内戦

メディナ・デ・ポマールが、歴史の表舞台に現れるのは14世紀。カスティージャ王位をめぐるペドロ1世とエンリケ2世の戦い(青池保子先生『アルカサルー王城』♡)の後のことです。この内戦はカスティージャ王国の城の歴史の転機となりました。内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世は支持者獲得のために家臣に城を含む領地の多くを与えました。これ以降、王領にあった城の多くが貴族の所有となり、現在に至っています。また、当時の名家の多くがペドロ1世支持にまわったために没落する一方で、エンリケを支持した新興貴族たちが台頭。アルバ公爵家(アルバレス・デ・トレド家)、フリアス公爵家(ベラスコ家)、インファンタード公爵家(メンドサ家)、メディナセリ公爵家など、今でもマスコミを賑わすことのある名前が、歴史の表舞台にますます登場するようになりました。

ベラスコ家の城

カスティージャ王位をめぐる内戦の末、ペドロ1世を殺し王位に就いたエンリケ2世は、内戦中に受けた忠誠に報いるために、1369年、ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの曽祖父)にメディナ・デ・ポマールを与えました。ベラスコ家は、11世紀ごろから文献に現れる古い一族。古くはアストゥリアスーレオン王家とも関係を築き、時代が下るとカスティージャ王国での地位を固めていきました。特にエンリケ2世以降トラスタマラ朝で、歴史の表舞台に常に登場するようになり、カトリック両王の時代にフリアス公爵位も与えられ、現在に至ります。

この城の建設は、このペドロ・フェルナンデスと妻マリア・サルミエントの手によります。二人は、このメディナ・デ・ポマールから、周囲に持ついくつもの所領を経営しようとしました。

塔に遺るムデハル様式の漆喰装飾

四角いどっしりとした塔は、この地方の城塞によく見られ、塔だけの場合もあれば、城の一画に主塔として建設されている場合もあります。建設当初は、町を囲む市壁に加えて、城の周りに深い堀と城壁が巡っていましたが、市壁の一部を除きすべて失われてしまいました。城への入り口は、塔に挟まれた中央の長方形の建物にあります。入口の右に突き出ている6角形の塔の中には、各階をつなぐ螺旋階段が通っています。威圧的で重たい印象の外観ですが、内部には繊細なイスラム装飾の影響も見られ、向かって左側の塔の最上階には、ムデハル(コカ城参照)漆喰装飾が遺っています。この装飾の中に組み込まれた紋章は、城を建設したペドロ・フェルナンデスとマリア・サルミエント夫妻のもの。

漆喰装飾に組み込まれた紋章
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コカ Coca

カスティージャ・イ・レオン州セゴビア県

レンガが織りなす模様が美しい、ムデハル様式を代表するお城。必見です。

ゴシック-ムデハルのお城の代表格

ムデハルとは、8世紀にイベリア半島の大半がイスラム勢力下におかれて以降、キリスト教勢力によりレコンキスタ(再征服)された地に、信仰や法習慣などを維持しながら残留したイスラム教徒のこと。彼らが伝えたイスラム芸術はキリスト教建築に大きな影響を与えました。レンガ構造、タイルの使用、アルテソナードと呼ばれる彩色格子天井などが特徴。ペドロ1世が建てたセビージャのアルカサルはその最たる例。お城だけでも、コカ城をはじめ、メディナ・デル・カンポのモタ城、セゴビアのアルカサルなどなど、枚挙に暇がありません。

ムデハル様式のコカ城でもっとも目を引くのはやはり、レンガを利用した美しい装飾です。レンガ色が主体ですが、銃眼やパティオの円柱には石灰岩が使われており、レンガ色と白のコントラストも印象的。塔や城壁に多数設置されたタレット(壁から張り出した小塔)とともに、独特の美しい景観を作り出しています。入口のアーチや城内には、壁画装飾も遺っています。

大砲の時代のお城

お城の本体は少しいびつな正方形。その1隅に正方形の主塔、3隅に八角形の塔(城壁から張り出している部分は六角)が配されています。その周りを城壁が取り囲み、こちらも4隅に六角形の塔が建設されています。多角形の塔は各面にタレット(張出塔)が配され、城壁にもところどころにタレットが設置されており、お城に独特の景観を与えています。

城は、村のはずれに建てられています。深い堀は、乾いた川の跡を利用したもの。深い堀に面した外壁は、下に行くほど厚くどっしりとしています。これは、大砲が戦争の主役になった時代のお城の特徴。

もうひとつ、大砲の時代の防衛施設。外壁の塔の地下には筒状の水槽があり、堀の反対側にあった地下貯水槽から水が引かれていました。さらにこの地下貯水槽には地下を通って四方から水が引かれていて、敵が城の地下爆破を狙って地下道を掘った場合、水の振動が外壁の塔の地下水槽に伝わり、これによって敵の地下壕作戦を察知することができるようになっていました。コカのこの装置が実際に役に立ったことがあるかどうかはわかりませんが、例えば、グラナダ戦役の最中、ベレス・マラガ攻防戦の際には、カトリック両王軍の将軍が、塔の下の地下壕に大砲を入れ、塔を倒壊させたとの記録が残っています。

主塔の前に城への入り口。大きな堀を渡って。
フォンセカ家の城、アロンソがいっぱい。

王領だったコカは、15世紀半ばにサンティジャーナ侯爵イニゴ・ロペス・デ・メンドサ(参照:マンサナレス・エル・レアル)に与えられますが、彼はアビラ司教だった(のちのセビージャ大司教)アロンソ・デ・フォンセカ・イ・ウジョア(1415-1473)と、サルダーニャ(パレンシア県)を交換。以後、コカはフォンセカ家の所領となります。アロンソはカスティージャ王フアン2世に城塞建設の許可をもらい、甥であるアロンソ・デ・フォンセカ・アベジャネダがコカ城を相続すると、彼が大部分の建築を指揮しました。このアロンソが死去すると、初代コカ領主セビージャ大司教の妹カタリーナの子、アロンソ・デ・フォンセカ・イ・アセベド(1476-1534/サンティアゴ大司教)がコカを相続します。新領主には娘がいましたが、1504年.カトリック両王は、コカ城は男子のみが相続するよう命じました。その目的は、アロンソの弟でフェルナンド王の側近だったアントニオ・デ・フォンセカをコカの領主にすること。同時に、カトリック両王の反対を押し切って、セネテ侯爵(ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール・イ・メンドサ:カラオラ城)と結婚したアロンソの娘メンシアが城を相続できないように画策したのでした。

後に、コカはアルバ家の所領となり、現在はアルバ家が国に使用権を譲渡しているとのこと。

ボルトジャ川(Rio Voltoya)を渡る前に見えてくるコカ城。
平地のお城というイメージでしたが、意外と高さがあってカッコいいです。
おすすめルート ムデハル様式のお城をめぐる

アレバロ(Arévalo)→27km→コカ(Coca)→35km→クエジャール(Cuellar)→60km→メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)で、ムデハル様式を代表するお城を一気にまわれてしまいます。クエジャールとメディナ・デル・カンポの間、オルメド(Olmedo)には、屋外ムデハル博物館があり、カスティージャ・イ・レオン州にあるムデハル建築のミニチュアが並んでいます。

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プエブラ・デ・サナブリア Puebla de Sanabria

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

ポルトガル国境まで15kmほどに位置するプエブラ・デ・サナブリア。この村にはお城がふたつありました。村の東端、テラ川を見下ろして建つお城は16世初頭、ポルトガルに起源をもつ貴族ベナベンテ公爵により建てられたもの。村を挟んで反対側にあったお城は、18世紀初頭にポルトガルが建設した星形要塞。どちらもポルトガルが大いに関係しています。

入り口前の広場から。
ベナベンテ伯爵登場

プエブラ・デ・サナブリアの集落は古くから史料に現れており(509年)、1132年からはすでに何らかの城塞があったことが記録されています。ポルトガル国境から15km程度の位置にあるプエブラは、中世から常に対ポルトガル防衛最前線にあり、1273年にはアルフォンソ10世からフエロを与えられています。

14世紀、プエブラ・デ・サナブリアの領主はペドロ1世の側近フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケでしたが、彼の死後(おそらくペドロ1世の命により毒殺)、ペドロ1世がこれをフェルナンド・デ・カストロ(ペドロの愛妾フアナ・デ・カストロの兄弟)に譲渡。更に、ペドロは1356年に、フェルナンドにガリシアの領地を与える代わりに、プエブラをメンス・ロドリゲスに与えました。

その後、ペドロ1世とエンリケ2世のカスティージャ王位をめぐる争いが終結し、トラスタマラ朝が成立した後、フアン1世(1358-1390)は、内戦中の父エンリケ2世に対する忠誠に報いるため、プエブラを、当地の貴族ロサダ家のアルバル・バスケスに与えました。1451年、フアン2世の治世に、3代目ベナベンテ伯爵アロンソ・ピメンテルが、領主フアン・デ・ロサダの未亡人マヨール・デ・ポーラスから、プエブラの半分を購入。さらに、1465年、エンリケ4世から王位の簒奪を狙った異母弟アルフォンソが、プエブラのもう半分(これまではディエゴ・デ・ロサダのもの)を4代目ベナベンテ伯爵ロドリゴ・デ・ピメンテルに与えましたが、アルフォンソの死とともに、この譲渡は取り消されました。イサベル1世とフアナ・ラ・ベルトラネハによるカスティージャ王位継承戦争終結後、カトリック女王イサベル1世は、ポルトガルのアルフォンソ5世(フアナ側)に加担したディエゴ・デ・ロサダから所領を接収し、プエブラの残り半分をロドリゴ・ピメンテルに与えますが、1480年、ポルトガルとの停戦条約締結とともに、この譲渡も取り消され、プエブラの半分はまたロサダ家の手に戻ります。1489年、ディエゴ・デ・ロサダの未亡人レオノールが、ベナベンテ伯ロドリゴ・ピメンテルと、ロサダ家が持つプエブラ半分とモンタマルタの所領を交換することで合意に達し、その娘、マリアの時に、ベナベンテ伯はようやくプエブラ全体を掌握することができました。

テラ川からお城を見上げる。
左から、Iglesia Ntra. Sra. de Azogue, Ermita de San Cayetano, Castillo
ベナベンテ伯爵の城 Castillo del Conde de Benavente

ベナベンテ4代目伯爵兼1代目公爵ロドリゴ・ピメンテルは、テラ川を見下ろす高台に、お城を建設します。ベナベンテにはロサダ家の時代にも塔があったことが記録されており、あるいは、現存するお城にある塔が、ロサダ家の古い塔を改築、増築したものかもしれません。

主塔(Torre de Homenaje)の入り口。左の円塔の中はまわり階段。

ほぼ正方形の強固な城壁の4隅に円塔を配し、その中央にどっしりとした矩形の塔が建っています。この塔は”El Macho”(雄)と呼ばれているのだそうです。お城の見学は、いつものように階段を登ったり下りたり。城内には、塔の壁にポッコリと張り出したトイレや、厨房の煙突など、生活臭あふれる要素も遺っています。また、中世の衣装の展示も充実していて、なかなか楽しいのです。

お城が完成して間もない1506年、スペイン王位についたフアナ女王とフェリペ美公夫妻がこのお城を訪れています。

その後、1887年、プエブラ・デ・サナブリア村がお城を買い取り、しばらくは、干し草倉庫、牢獄、鶏舎など、少々悲しい使われ方をしていましたが、修復を経て現在は一般に公開されています。

サン・カルロス城 Fuerte de San Carlos ― ポルトガルが築いた星形要塞

プエブラ・デ・サナブリアにはもう一つ、お城の跡があります。現在は小高い丘にしか見えませんが、お城から村を挟んで反対側の丘に、18世紀初頭にポルトガル軍が建設したお城の跡があります。星形要塞と呼ばれる形のお城で、日本の五稜郭のような形。スペインの星形要塞の分布を見ると、ハカやパンプローナなどフランス国境周辺と、プエブラ、シウダロドリーゴなどポルトガル国境沿いに集中しています。国境を越えてポルトガル側にも、アラメイダ、バレンサ等の星形要塞があります。

フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。

村を挟んで城と反対側にある丘の上、サン・カルロス城があった場所から見たプエブラ・デ・サナブリア。
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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 近世 星形要塞

参考WEB

ベナベンテ Benavente

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

お城として十分に強固な印象を与える建物ですが、さらに壮大なお城に複数あった塔のひとつに過ぎません。現在はパラドールとなっています。

オルビゴ川、エスラ川、テラ川が交わるベナベンテは、緑豊かな肥沃な地です。カスティージャとガリシアを結ぶ交通の要所でもあり、古くから人々が生活していました。ベナベンテにはフェルナンド2世(レオン王在位:1157-1188)のころから何らかの城塞があったことがわかっています。

高台にあるお城の横の広場から。オルビゴ川、テラ川が流れる方向。真夏でもこんなに緑。
ベナベンテ伯爵-公爵家―ピメンテル家

時は下って14世紀末、カスティージャ王エンリケ3世は、1398年、ポルトガルからカスティージャに亡命してきたフアン・アルフォンソ・ピメンテルアリハ・デル・インファンタード参照)に、ベナベンテの所領と伯爵位を与えました。

ベナベンテ伯爵となったフアン・アルフォンソですが、ベナベンテの人々には歓迎されなかったようです。2年後、ベナベンテの人々は王に対して領主、特に領主を取り巻くポルトガル人たちの専横的な振る舞いについて訴えていました。その後、2代目伯爵ロドリゴ・アロンソは、マジョルガ、ビジャロン(バジャドリード)などに領地を広げ、フランスへの外交使節団に加わるなど活躍、王族アロンソ・エンリケス(エンリケ2世の双子の弟ファドリケの子)の娘レオノールと結婚して王家とのつながりを強めるなど、着々と地位を固めていきます。

エンリケ3世を継いだフアン2世の治世で、2代目、3代目伯爵は何度か王と対立し、その度にベナベンテの城を接収されては返されたりもしていましたが、4代目伯爵でベナベンテ公爵位も授けられたロドリゴ・アロンソ・ピメンテルは、ポルティージョ、プエブラ・デ・サナブリア、ビアナ・デル・ボロなどにも所領を持ち、それぞれに城を建設。ベナベンテにも壮大な城塞宮殿を建設しました。1499年にロドリーゴが死去すると、建築に問題があったのか、城塞宮殿は土台から倒壊の危機にさらされます。ロドリゴの死後ベナベンテを継いだアロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、城塞宮殿の修復と改築を余儀なくされました。

ピメンテル家の城塞宮殿は、当時、この地を訪れた人物に「グラナダとセビージャの宮殿を除いて、スペインで並ぶものはない」とまで言わしめたほど。「正方形で、4隅に屈強な塔があり、周囲を堀で囲まれ、さらに強固な城壁に守られていた。内部には正方形の中庭があり…贅を尽くした装飾が施されていた」宮殿は、例えば、天井は美しい「アルテソナード」(ムデハルの影響が色濃い極彩色の格子天井)で彩られ、それを支える円柱には、アラバスター、大理石、ジャスパーなどが使われていました。また、城塞宮殿の近くには庭園があり、そこにはラクダ、ライオン、ゾウなどエキゾチックな動物たちが飼われていたとのこと。

この宮殿を訪れた人々の中には、スペイン王位に就いたばかりのフェリペ美公とフアナ女王夫妻(1502年、1506年)や、あのチェーザレ・ボルジア(1506年)がいます。カトリック王フェルナンドによりメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されていたチェーザレ・ボルジアは、フェルナンドと対立していたベナベンテ公爵の助けを借りて脱出、ナバラへ向かう途中に公爵の宮殿に立ち寄りました*。*ただし、ベナベンテ公爵の他の宮殿であったとの記述もあり。

トーレ・デル・カラコル Torre del caracol

この贅を尽くした城塞宮殿から唯一現存するのが「トーレ・デル・カラコル(カタツムリの塔、あるいは、螺旋階段の塔)」です。塔に施された紋章は、このアロンソ・ピメンテルと妻アナ・デ・ベラスコのもの。

19世紀、ベナベンテ城は大規模な火災に見舞われ、世紀の終わりごろには、トーレ・デル・カラコルを残し、城塞宮殿跡はすべて取り壊されてしまいました。現存する塔は20世紀中ごろに修復され、1971年に国営パラドールとなり、現在に至ります。現在、この塔には往時をしのばせる美しいアルテソナード(ムデハル様式の格子天井)がありますが、これは近くのサン・ロマン・デル・バジェ教会にあったもの。

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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期

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泊まれるお城 パラドール
Parador de Benavente
Paseo de la Mota, s/n 49600 Benavente Zamora
+34 980630300

バルシエンセ Barcience

カスティージャ・ラ・マンチャ州トレド県

塔の一面に彫刻された大きなランパント・ライオン(後ろ足で立つ姿のライオン)が最高に格好いい!! 正直、他に見どころはないし、派手な事件が起きたり超有名人が来たり、という話を読んだこともないのですが、こんなスタイリッシュな紋章は他にないっ!というわけで、お城を見るというよりも、このライオンを見に、行ってきました。この紋章は15世紀に城を建設したシルバ家のものです。

バルシエンセ村のはずれ、墓地へ至る道をさらに進むと、城塞が見えてきます。二つの円塔からなる門を通って、お城の本体へ。この二つの円塔は、おそらく城塞を取り囲む外壁にあったもの。外壁の外側には堀もあったようですが、現在は外壁も堀も失われてしまいました。お城は長方形。その城壁の一画に矩形の主塔(Torre de Homenaje)、二隅に円塔、そして、現在は城壁よりも低くなっていますが、主塔よりも大きな長方形の塔が遺っています。前述の堂々たるランパント・ライオンが彫刻されているのは、主塔です。

この辺りには11世紀から12世紀にはすでに何らかのお城があったことも推測されています。この地は13世紀にサンティアゴ騎士団*の手に渡りますが、1454年にサンティアゴ騎士団の騎士団長だったカスティージャ王エンリケ4世が、シルバ家のアルフォンソ・テノリオ(Adelantado)に与えました。現在の城は1456年にシフエンテス伯爵号を与えられたフアン・デ・シルバにより築城が開始され、その孫の代に完成。16世紀になると、大砲や砲兵を配置していたことが記録されていますが、この城が戦闘に巻き込まれたという記録はないとのこと。時代的に見ても防衛用というよりは、領地の人々に権威を誇示するための居城として使われていたようです。

ちなみにシルバ家は、ポルトガルに起源をもつ貴族です。14世紀、ポルトガル王フェルナンド1世の死後、アルフォンソ・テノリオの父アリアス・ゴメス・デ・シルバはカスティージャ王フアン1世(フェルナンド1世の一人娘と結婚していた)のポルトガル王位継承を支持したため、内戦に勝利して王位に就いたジョアン1世(アヴィス朝)にポルトガル国内の所領を渡さざるを得ませんでした。アリアス死後、未亡人となった妻ウラカ・テノリオは兄でトレド大司教ペドロ・テノリオを頼って、カスティージャ宮廷に亡命。この辺の経緯は、ピメンテル家(ベナベンテ)やアクーニャ家(ベルモンテ、バレンシア・デ・ドン・フアン)などとよく似ています。

その後、城はインファンタード公爵家、オスーナ公爵家、パストラナ公爵家の手を経て、パストラナ公爵が教皇レオ13世紀(在位:1878 – 1903)に寄進すると、レオ13世がシリロ・カルデロンなる人物に売却。現在もこの一族の所有です。

何度見てもカッコいい💓
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カスティージャ・ラ・マンチャ州 トレド県 中世後期

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