上の写真:最上部、一重目の城壁の中に、左から「モンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔 (Palacio del Conde de Monterrey con la Torre de las Damas)」、「サンタ・マリア・デ・グラシア教会 (Iglesia de Santa María de Gracia)」、奥に城塞の主塔(Torre de Homenaje) 。手前に2重目の城壁、その下に3重目の城壁が見える。
最上部にある城壁。奥にモンテレイ伯爵宮殿および貴婦人の塔。
「王の山」モンテレイ
モンテレイが歴史に登場するのは10世紀、当時の名前は「Castrum Baroneceli」で、すでに何らかの要塞があったようです。この地方の有力者エルメネヒルド・グティエレスという人物の所領でした。エルメネヒルドの孫で後に聖別されることになるロセンドが10世紀、セラノバ(モンテレイから西に60kmほど)に修道院を建立すると、この地は修道院の所領に。彼らはローマ教皇庁も巻き込んで、この地が王領となり城塞をいただくのを阻もうとします。モンテレイは、カスティージャとガリシアをつなぐ交通の要所にあるうえ、12世紀にカスティージャから独立したポルトガルとの国境から近かったため、王たちは植民をし教会を建て…既成事実を作りながら、13世紀になってようやく、修道院領から独立した王の山(Monte de rey)「モンテレイ」を誕生させたのでした。その間にも、ポルトガル国境付近には、城塞や塔による防衛網が建設されていました。
城塞で突出するのは高さ22mの主塔(Torre de Homenaje)。「ドン・サンチョの塔(Torre de Don Sancho)」とも呼ばれます。入口は2階の高さにあり、入るには跳ね橋が必要でした。1482年、1代目モンテレイ伯爵サンチョ・サンチェス・デ・ウジョアによる建設(入口の上部の石にその旨が記されています)。ではあるのですが、大部分は、モンテレイから南に7kmの場所にあった別の城塞から移築されたものだそうです。この部分では、切石に刻まれた無数のシンボルも目を引きます。これは建設時に石工たちが記したサイン(仕事の対価を計算するのに必要でした)。
① 2015年、伯爵宮殿はパラドールとしてオープンしました。ガリシア州がパラドールに75年間、使用権を譲渡する形でオープンにこぎつけた宿泊施設でしたが、もともとお城は文化施設として利用される予定だったことから、お城のあるベリンの住民からは反対の声が上がり、係争の末、パラドールは一時閉館に追い込まれました。
② モンテレイ城の向かいの丘には、1967年にオープンしたベリンのパラドールがあります。この場所には、16世紀から1768年(イエズス会追放令の年)までイエズス会の学校がありました。1590年ごろ在校生は1200人にのぼったとの記録もあるそうです。ただし、当時の建物は残っておらず、パラドールがあるのは後年に建設された、ガリシアで「パソ」と呼ばれる邸宅風の建物。緑豊かなガリシアの風景の中に建つお城を眺めながら過ごすのも、一興かも。(年に数回の閉館期間があるのでご注意を)
① Parador Castillo de Monterrei Castillo de Monterrei, s/n 32618 Monterrei (Ourense) +34 988 02 92 30 monterrei@parador.es
② Parador de Verín Subida a Monterrei, s/n 32600 Verín (Ourense) +34 988410075 verin@parador.es 年に数回、閉館期間があるのでご注意を。
カラトラバ・ラ・ビエハ(Calatrava la vieja)かつての要塞都市から遺っているのは城塞の一部のみですが。
↓62km(約1時間)
カタトラバ・ラ・ヌエバ
↓33km
アルマグロ(Almagro)13世紀からカラトラバ騎士団の総長が住む館がありました。現在の建物はつい最近まで増改築が重ねられてきましたが、ムデハル様式の影響がみられるパティオには、アラブやゴート時代の建築素材も使われているとのこと。現在は演劇博物館となっています。また、アルマグロは17世紀の劇場(Corral de las comedias)でも有名。毎年、演劇祭が開催されています。
ハロン川流域は半島中央からサラゴサへと向かう、交通の要所となるとともに、カスティージャ王国とアラゴン王国の国境を形成し、しばしば両王国の戦いの場となっていました。メディナセリ(Medinaceli)から、モントゥエンガ、ソマエン(Somaén)、アルコス・デ・ハロン(Arcos de Jalón)、マンテアグード・デ・ラス・ビカリアス(Monteagudo de Vicarias)、ラ・ラジャ(La Raya)と、比較的小さな間隔で城や塔が建っているのはこのためです。特にラ・ラジャは、常にカスティージャとアラゴンの境界だったため、争いが絶えなかった一方、ラ・ラジャのお城の麓にある小さな教会(Ermita de Nuestra Sra. de la Torre)はちょうど国境線上にあったため、この教会で洗礼を受けた者は、カスティージャとアラゴンの両者のフエロ(特別法)が適用されたのだとか。
1157年、レオン王国とカスティージャ王国が分裂すると(この経緯はティエドラ城で)、グレドス山脈以南の境界線はほぼ銀の道(Via de la Plata )に沿って決められました。1160年、レオン王フェルナンド2世がイスラム教勢力下にあったグラナディージャを征服。再植民をし、城壁を建設し、1170年に「Villa」の称号を与えました。1191年、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世がサンティアゴ騎士団に寄進(同じころ、アルフォンソ9世はポンフェラーダをテンプル騎士団に寄進しています)。この時、グラナディージャを中心にいくつもの領地がサンティアゴ騎士団に与えらえました。再植民を活性化するため、あるいは、ムワッヒド朝やポルトガル、カスティージャの脅威に備えるため、などの理由が考えらえます。
プラセンシア(Plasencia)新旧ふたつのカテドラル、町を囲む城壁、水道橋、宮殿…見どころ満載。また、プラセンシアからマドリード方面に向かうラ・ベラ地方(Valle de la Vera)、アビラ方面に向かうヘルテ地方(Valle de Jerte)、サラマンカ方面に向かうアンブロース地方(Valle de Ambroz)はそれぞれにちがった魅力があって、どれもおすすめ。このうちグラナディージャから近いのはアンブロース地方のエルバス(Hervas)。栗の産地です。
アレバロ(Arévalo)→27km→コカ(Coca)→35km→クエジャール(Cuellar)→60km→メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)で、ムデハル様式を代表するお城を一気にまわれてしまいます。クエジャールとメディナ・デル・カンポの間、オルメド(Olmedo)には、屋外ムデハル博物館があり、カスティージャ・イ・レオン州にあるムデハル建築のミニチュアが並んでいます。
フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。
バルシエンセ村のはずれ、墓地へ至る道をさらに進むと、城塞が見えてきます。二つの円塔からなる門を通って、お城の本体へ。この二つの円塔は、おそらく城塞を取り囲む外壁にあったもの。外壁の外側には堀もあったようですが、現在は外壁も堀も失われてしまいました。お城は長方形。その城壁の一画に矩形の主塔(Torre de Homenaje)、二隅に円塔、そして、現在は城壁よりも低くなっていますが、主塔よりも大きな長方形の塔が遺っています。前述の堂々たるランパント・ライオンが彫刻されているのは、主塔です。