メディナ・デ・ポマール Medina de Pomar       

ブルゴス県メディナ・デ・ポマール

ふたつの大きな塔が特徴的な城塞宮殿。塔はそれぞれ15m四方、塔をつなぐ中央の建物は幅22m。塔の壁の厚さは2.5mもあります。重厚で威圧的な印象を与えるお城です。

メディナはアラビア語

スペインの地名によく現れる「メディナ」はアラビア語で町を意味する「マッディーナ」が語源。メディナ・デ・ポマール(リンゴの町?)は、「メディナ」と名がつく市町村の中では最も北にある町です。アラビア語起源の名前であるため、町もこの地方がイスラム影響下にあったころにできたとも考えられますが、町の誕生がいつだったのかはわかっていません。

カスティージャ内戦

メディナ・デ・ポマールが、歴史の表舞台に現れるのは14世紀。カスティージャ王位をめぐるペドロ1世とエンリケ2世の戦い(青池保子先生『アルカサルー王城』♡)の後のことです。この内戦はカスティージャ王国の城の歴史の転機となりました。内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世は支持者獲得のために家臣に城を含む領地の多くを与えました。これ以降、王領にあった城の多くが貴族の所有となり、現在に至っています。また、当時の名家の多くがペドロ1世支持にまわったために没落する一方で、エンリケを支持した新興貴族たちが台頭。アルバ公爵家(アルバレス・デ・トレド家)、フリアス公爵家(ベラスコ家)、インファンタード公爵家(メンドサ家)、メディナセリ公爵家など、今でもマスコミを賑わすことのある名前が、歴史の表舞台にますます登場するようになりました。

ベラスコ家の城

カスティージャ王位をめぐる内戦の末、ペドロ1世を殺し王位に就いたエンリケ2世は、内戦中に受けた忠誠に報いるために、1369年、ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの曽祖父)にメディナ・デ・ポマールを与えました。ベラスコ家は、11世紀ごろから文献に現れる古い一族。古くはアストゥリアスーレオン王家とも関係を築き、時代が下るとカスティージャ王国での地位を固めていきました。特にエンリケ2世以降トラスタマラ朝で、歴史の表舞台に常に登場するようになり、カトリック両王の時代にフリアス公爵位も与えられ、現在に至ります。

この城の建設は、このペドロ・フェルナンデスと妻マリア・サルミエントの手によります。二人は、このメディナ・デ・ポマールから、周囲に持ついくつもの所領を経営しようとしました。

塔に遺るムデハル様式の漆喰装飾

四角いどっしりとした塔は、この地方の城塞によく見られ、塔だけの場合もあれば、城の一画に主塔として建設されている場合もあります。建設当初は、町を囲む市壁に加えて、城の周りに深い堀と城壁が巡っていましたが、市壁の一部を除きすべて失われてしまいました。城への入り口は、塔に挟まれた中央の長方形の建物にあります。入口の右に突き出ている6角形の塔の中には、各階をつなぐ螺旋階段が通っています。威圧的で重たい印象の外観ですが、内部には繊細なイスラム装飾の影響も見られ、向かって左側の塔の最上階には、ムデハル(コカ城参照)漆喰装飾が遺っています。この装飾の中に組み込まれた紋章は、城を建設したペドロ・フェルナンデスとマリア・サルミエント夫妻のもの。

漆喰装飾に組み込まれた紋章
WEB

フリアス Frías

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

村のはずれに立つ岩山の頂に、村の上に張り出すように建つお城。今にも家々の上に落ちてきそうです。実際に、過去には、城からの落石で命を落とした人もいたそうです。

城の入り口は、この塔の反対側にあります。村からは上り坂ですが入り口付近は平らなので、こちら側の警備は厳重でした。お城に入るには、跳ね橋を通って堀を渡ります。跳ね橋を渡ったら左に曲がり、堀沿いの外壁と城塞に挟まれた細い通路を進み主要門へ。主要門を入ったら今度は右に曲がって初めて城内に入ることができます。城に入るまでの間、跳ね橋のアーチの上から、通路の両側の城壁の上から、主要門の塔の上から、絶えず監視の目が光っていたわけです。

城内は不規則な四角形。入口から見ると正面に、先ほど村から仰ぎ見ていた主塔が建っています。主要門から見て左側の壁には二重アーチ窓が三つ並んでおり、騎士や神話上の動物(ハルピュイア:鷲のからだに女性の頭を持つ怪物)をモチーフとした装飾が美しいロマネスクの柱頭が、武骨な要塞建築の中で異彩を放っています。おそらくこの部分が城の最古の部分。城主の住居があった場所と思われます。反対側の壁沿いには兵舎や厩舎がありました。

柱頭の装飾が美しい二重窓

フリアスが史料に現れるのは9世紀。エブロ川上流域のレコンキスタが完了しキリスト教徒の村々ができていた頃。ナバラ、レオン、カスティージャを統一したナバラ王<大王>サンチョ3世(在位1000-1035)の死後、3人の息子たちが王国を分割相続すると、フリアスはナバラ領となりましたが、1054年にアタプエルカ(ブルゴス県)の戦いでカスティージャ王フェルナンド1世がナバラを退け、以後、カスティージャ領に。とはいえ、その後もしばらくはこの辺りでは、ナバラとの国境争いが続きます。

フリアスが繁栄したのは、カスティージャ王アルフォンソ8世(在位1158-1214)の時代。これまでメリンダデスと呼ばれるこの地方の行政の中心はペララダ城(1140ナバラ王による建設)でしたが、アルフォンソ8世がその役割をフリアス城に与え、防衛上もここを拠点としました。

現存する城の最古の建築部分はこのころの建設と考えられています。アルフォンソ8世は、ナバラ王国との国境線を防衛するために、近くのメディナ・デ・ポマールなどと併せて防衛ラインを築こうと、再植民に力を入れます。

このころ城塞主は世襲制ではなく、あくまでも王から任命されるものでした。フリアスの近くオニャの修道院長が、フリアス城塞主の横暴な振る舞いに対して、王に苦言を呈したという記録も遺っているそうです。しかし、レコンキスタの進行やキリスト教国間の国境の移動や消滅などによって、防衛上の重要地点が変化したり、貴族の力が強くなってくると、王は城塞を含めて所領を家臣に与えるようになり、貴族が所有する城が増えていきます。特に、14世紀のカスティージャ王位をめぐる内戦はその傾向に拍車をかけました。フリアスもその一例です。

1394年カスティージャ王エンリケ3世は、フリアスをディエゴ・ロペス・デ・スニガに与えるも、2年後にベハル(サラマンカ県)と引き換えにフリアスを取り戻し、「今後、いかなる王もフリアスを他の者に与えることはできない」という勅令を出しました。にも拘わらず、1446年息子のフアン2世はフリアスをペニャフィエル(バジャドリード県)と引き換えにペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの父親。メディナ・デ・ポマール参照)に与え、フリアスの城は決定的に王権を離れます。これまで特別法を享受していた村人たちは、新しい城主に過酷な納税を要求されることを恐れ、その入場を阻止しようと蜂起!しかし、強大な軍事力を持つ大貴族が相手では、その顛末は明らかなこと。結局、包囲戦の末、降伏を余儀なくされました。この戦いの様子は現在でも「フィエスタ・デ・カピタン」と呼ばれる村祭りで語り継がれています。

この戦いの中で元からあった城塞はかなりの被害を受けたのか、ペドロ・フェルナンデスは直ちに城を修復。入口付近の外堀や二重の城壁、主要門のある塔などを新たに建設しました。村の上に張り出す主塔も15世後半の建設。村人たちに権威を誇示しています。

その後、ベラスコ家はカトリック両王の時代にフリアス公爵位を授かるなど、隆盛していきますが、フリアスは16世紀にコムニダーデスの乱に巻き込まれ、17世紀にはペストにより人口が激減。歴史の表舞台から姿を消していきます。

フリアスのもう一つの象徴は、エブロ川にかかる美しい橋。満々と水をたたえて地中海に流れ込むエブロ川ですが、フリアスではまだ生まれたてです。橋の本体は12世紀のロマネスク建築。橋の中ほどに建つ塔は14世紀のゴシック建築です。塔の上部には鋸壁や石落としもあり、なかなか強固な警備体制だったことがうかがえます。ラス・メリンダデスと呼ばれるこの地方から、南のブレバ地方(ブルゴス県)や東のリオハ方面に向かうためにはこの塔で橋通行税(Pontazgo)を払わなければなりませんでした。

お城から橋を眺めて…

おすすめルートは、ポサ・デ・ラ・サル参照。

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カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世前期 中世後期 フリアス公爵

ポサ・デ・ラ・サル Poza de la Sal

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

ブルゴスから車で40分ほど北上すると、マサ平原(Paramo de Masa)の西端、ポサ・デ・ラ・サル村の後ろにそびえる岩山の中腹に塔と城壁、そのはるか上の山頂に円塔を擁する城塞が見えてきます。これは楽しみなロケーション。山間の狭い土地を利用した山城にはいろいろな工夫があって、平地にある洗練されたお城とはまた違った楽しみがあるのです。

入り口は山の裏側

山頂にある城塞は、「石になった波の上に浮かぶ船」(ディオニシオ・リドルエホ”Castillos de Burgos“より)のよう。山頂には村の裏手から簡単に車で登れるのでご心配なく。車から降りたら二つの小さな塔からなる門を通り、かつては城壁で囲まれていた「武器の広場」であったであろう場所を通り、岩を削って作った急な階段(こういうのが超楽しい)を登り、尖塔アーチの入り口をくぐって城内へ。お城は岩山をくりぬいて土台を固めた上に石を積んで建設されており、むき出しの岩肌と石積みが組み合わされた壁に、その様子があらわれています。平らな土地など全くない場所に建てられている割に、内部は広く感じられます。かすかに尖塔がかったヴォールトをいただく廊下(それとも広間?)は、長さ16m×幅4m。廊下の奥の階段を登って屋上に出ると、南東に広がる平原をはるか遠くまで見渡せます。

お城の発掘調査で、ポサ・デ・ラ・サルには先史時代から集落があったことが確認されました。特にローマ時代には塩の生産が盛んになり、豊かさを享受していたことが想像できます。

ロハス家の城 Castillo de los Rojas

8世紀のイスラム勢力の侵入後、「ポサ」の名が文献に現れるのは9世紀。明らかに「Pozo de la sal(塩井戸)」が語源となった名前です。10世紀には再植民が行われており、このころにはすでに何らかの要塞があった可能性もあります。13世紀、王領だったポサはカスティージャ王フェルナンド4世(在位:1295-1312)がフアン・ロドリゲス・デ・ロハスに与え、以後、ロハス家の所領となりました。現在の城塞は14世紀初頭に彼らによって建設されたものと推測されています。さらに14世紀末に、婚姻によりポサはディエゴ・フェルナンデス・デ・コルドバ(1355-1435/カスティージャ王フアン1世、エンリケ3世、フアン2世の側近)の所領となると、彼も城を改築し、ほぼ現在の姿となりました。

城塞からふもとの村を囲むように建設された城壁も一部が遺っています。村とともに大切な塩田も守っていました。また、山の中腹に見える塔は、ロハス家の宮殿のもの。16世紀の建設です。この宮殿の建設とともに、山頂の城塞は次第に放置されていきました。16世紀、コニャック同盟戦争*後の交渉に訪れたベネツィア大使アンドレア・ナバジェロは、1528年、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の命によりポサの城に幽閉され、その様子を「この地の領主は山の中腹に立派な館があるが、山頂にも屈強な城も持っており、そこに登るのは至難の業…」と語っています。

19世紀初頭、スペインに侵入したナポレオンの軍隊は、ポサの城を修復して駐屯していたとのこと。

ちなみに、古くから塩の生産で栄えてきたポサ。レコンキスタ以降、多くの塩田が修道院により経営されていましたが、12世紀からはカスティージャ王家も塩田経営に乗り出しました。16世紀になるとフェリペ2世が塩をスペイン王家の専売とし、それは19世紀まで続いたとのこと。岩塩鉱に掘った溝に水を通して塩を含ませ、その塩水を塩田に流しいれて天日で干し、塩を生産していました。

おすすめルート

ポサは、ブルゴスから45km、車で40分ほど。そこから→15km→カスティージャ伯一族が眠るオニャ (Oña) の修道院→25km→フリアス (Frías)(お城と橋)→85km→ブルゴスで、1日コース。

おまけ

塩田と言えば、アニャーナ(Añana – バスク州アラバ県)。古代から続く歴史ある塩田です。バスクの名店御用達。塩の生産は夏場だけなので、ぜひ夏に!

フリアスから車で40分ほど。ちなみに、ビトリアから45分、ブルゴスから70分ほど。

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カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世後期 産業遺産 塩田