カスティージャ・イ・レオン州パレンシア県
パレンシアから車で15分ほど北上すると、フエンテス・デ・バルデペロの村に、存在を誇示するかのように、どっしりとした構えのお城が見えてきます。もとは、もっとスマートなお城だったのですが、これほど大きくて重たい印象を与えるお城に生まれ変わったのには、悲しい理由があるのです。
サルミエント城 Castillo de Sarmiento
フエンテス・デ・バルデペロが再植民されたのは10世紀のこと。カスティージャ伯のフェルナン・ゴンサレスの子、ペドロ・デ・パレンシアの手によりました。この頃には何らかの城塞が建設されたようです。その後、ペドロ・アンスレス(バジャドリードの創設者)、カストロ家などの手を経て、14世紀にサルミエント家の所領に。
現存する城はサルミエント城と呼ばれます。15世紀半ば、フエンテス・デ・バルデペロの領主だったディエゴ・ペレス・サルミエントに、カスティージャ王フアン2世がサンタ・マリア伯爵の称号を与えました。サルミエント城の築城はこのころ。1465年ごろまでに建設されました。当時のお城は、現在のものよりもずっと華奢な主塔と、城壁に囲まれた「武器の中庭(Patio de armas)」がある、バジャドリードを中心にカスティージャによくある形のお城でした。(バジャドリード派のお城:トーレロバトン、フエンサルダーニャ、ペニャフィエル、ポルティージョ、ビジャロンソ etc.)
そんなお城の姿を一変させたのが、16世紀。ディエゴ・ペレスの孫娘コンスタンサの子、アンドレス・デ・リベラによる改築。きっかけとなったのは、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に不満を持った諸都市が結集して蜂起した、コムニダーデス(自治都市)の乱でした。
コムニダーデスの乱
1520年5月にトレドで始まった反乱は、主にカスティージャの諸都市を巻き込み大規模な戦役に発展(参照:メディーナ・デル・カンポ)。しかし、コムネロス(自治都市の人々)たちがフアナ女王のいたトルデシージャスを失うと、形勢は国王軍に傾きます。こうした中、サモラ司教だったアントニオ・アクーニャが、ほぼ全員が聖職者だったという自軍を駆使して、バジャドリードからパレンシアにあった国王派の領主たちの城を次々に襲いました。そのうちのひとつが、フエンテス・デ・バルデペロです。
1521年1月、フエンテス・デ・バルデペロにコムネロス軍が襲い掛かります。大砲攻勢を前に城は大きな被害を受け降伏。城は略奪され、城主一族は捕らえられて投獄されてしまいました。同年4月にビジャラールの戦いでコムネロス軍が破れ、反乱が鎮圧されると、城は返還され、アンドレス・デ・リベラも解放されます。
お城の改築
解放されたリベラは、さっそく城の再建に着手しますが、この時の主塔の改築がすごかった。彼は獄中で食べ物にも事欠くような散々な扱いを受けていたと伝えられています。この経験がよほど大きなトラウマとなったからなのか、大砲にもびくともしない難攻不落の城を造りたかったらしいのです。リベラは、破壊された城壁や東側の二つの円塔を再建するなど城の修復を行うとともに、主塔の周囲に分厚い壁を増築しました。その厚さたるや、場所によっては11メートルに達するというもの。現在のどっしりとした城はこうしてできあがりました。

しかし、おそらく改築工事が終わる前に、アンドレス・デ・リベラは城を売却。その後、相続や婚姻などにより城主が何度も変わりました。20世紀、廃墟となっていた城をパレンシア県が買い取り、修復を経て一般に公開されています。
階段を上がり降りして、塔の屋上や武器の中庭を囲む城壁上の回廊から、カスティージャの広大な風景を見渡したり、暗い牢獄に降りてみたり…、見学はなかなか楽しいのです。主塔には、11メートル!!の壁に窓が開いているので、中からその壁の厚さが実感できます。


パティオには、主塔の向かい側の城壁に沿ってサルミエント家の宮殿部分があり、2階建ての回廊もありましたが、廃墟となっていた19世紀末に崩落。現在は歴史資料館が造られています。回廊を飾っていた欄干や円柱は、村の教会(Iglesia parroquial Nuestra Señora de la Antigua)の聖歌隊席などに利用されています。


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カスティージャ・イ・レオン州 パレンシア県 中世後期 バジャドリード派 コムネロス
参照WEB
- サルミエント家の城 公式ページ Castillo de los Sarmiento
- フエンテス・デ・バルデペロ Ayuntamiento de Fuentes de Valdepero -Castillo de los Sarmiento 写真はこちら


