ラス・メドゥラス Las Médulas

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

言わずと知れた(?)世界遺産。レオン県ポンフェラーダから車で30分ほど。

約1500万年前に形成された沖積層。この金鉱脈は、ローマ到来以前からすでに原住民が採掘しており、この付近からは金の装飾品が出土しています。

しかし、ラス・メドゥラスを形作ったのはローマ人です。ローマ帝国は、紀元前1世紀、初代皇帝アウグストゥスの時代にイベリア半島北部を征服。間もなく、この地で、ローマ人による大規模な金の採掘がはじまりました。土木技術に長けた彼らは、「ルイナ・モンティウム(山崩し)」と呼ばれる方法で大量の金を採掘しました。それは、水道を建設して近くの山々の水源から水を引いて貯水池に貯め、その水を、金鉱脈のある場所に無数に掘ったトンネルに流し込んで山崩れを起こし、押し流された土砂の中から金を採集するというもの。近くには当時の水道跡も遺っています。

Google Mapで、山の崩れ具合がよくわかります。

オレジャン村のはずれにあるオレジャン展望台(Mirador de Orellán)から、ラス・メドゥラスを一望できます(上↑の写真)。この展望台の近くには、坑道への入り口もあるので是非!人数制限があるので少々待たなければならないかもしれませんが、その価値あり、です。坑道の中は夏でも寒いので、ご注意を。身長160㎝の私でも、腰をかがめて歩かなければならない場所もありました。ヘルメットを貸してくれます*。

坑道を進むと、絶壁に開いた展望台に出る。山崩しを免れた赤土に坑道の跡が見える。

ラス・メドゥラスの村からは、赤土の山の間を通る散策コースがあります。オレジャン展望台にのぼるコースもありますが、往復するとそれなりに時間がかかるので、日没時間など注意が必要です。以前は、ラ・クエボナ(La Cuevona)と呼ばれる赤土のトンネルを通ることができたそうですが、2022年現在、トンネルは残念ながら立ち入り禁止。

散策中
ラス・メドゥラスの村から見た風景。
おすすめルート

モンテフラド(Montefurado ルーゴ県)にも、ラス・メドゥラスのミニチュアのような金の採掘跡があります。また、川筋を変えて川底の砂金を採集するために掘られたトンネルも遺っています。オウレンセ方面に向かって車で50分ほど。

*見学に関する情報は、いずれも2022年夏のものです。

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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 ローマ遺跡 産業遺産

アリハ・デル・インファンタード Alija del Infantado

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

マドリードからガリシアへ向かうA-6をベナベンテ(Benavente)あたりで少し外れ、ローマ時代の銀の道(Via de la Plata)に沿ってラ・バニェサ(La Bañeza)に向けて北上すると、オルビゴ川の河畔に豊かな田園が広がります。

この地の城塞が最初に史料に現れるのは931年。ただし、その後、アリハはポンセ家、キニョネス家、ベナベンテ伯爵家(ピメンテル家)、インファンタード公爵家と領主が変わり、お城もそのたびに改築が重ねられてきました。

広場に面した城壁の銃眼から覗いた中庭。正面に「ポンセ宮殿」の塔。
ピメンテル家の城  Castillo de los Pimentel

現存するお城は、古い城塞の跡に、15世紀から16世紀に建てられたもの。築城主は、お城の呼称にあるように、ピメンテル家(ベルナルディーノ・ピメンテル)とする説と、もう少し後の時代、村の名前にあるように、インファンタード公爵(イニゴ・ロペス・デ・メンドサ・イ・ピメンテル)とする説があります。

ピメンテル家はポルトガルに起源をもつ亡命貴族の一族。14世紀後半、ポルトガル北東部、スペイン国境に近いブラガンサに所領を持っていたフアン・アルフォンソ・ピメンテルは、時のポルトガル王フェルナンド1世の妃の妹フアナ・テジェスと結婚していました。フェルナンド1世が亡くなると、フアン・アルフォンソは、フェルナンド1世の娘ベアトリスが結婚していたカスティージャ王フアン1世のポルトガル王即位を支持します。しかし、ポルトガルのスペインへの併合には抵抗が大きく、結果的にフェルナンド1世の異母弟ジョアン1世が1385年アビス朝を開き、ポルトガルの王位をめぐる争いは終結(この辺の経緯は、バレンシア・デ・ドン・フアン参照)。フアン・アルフォンソははじめ、新しい王に忠誠を誓いますが、のちにカスティージャに亡命し、カスティージャ王フアン1世の子エンリケ3世の家臣に。エンリケ3世は、フアン・アルフォンソにベナベンテ(サモラ北部)の所領と伯爵位を与えました。これが、カスティージャにおけるピメンテル家の始まりです。その後の経緯はベナベンテで。

お城はほぼ正方形の城壁に囲まれ、城壁内部にかつての宮殿の一部だった塔が遺っています。城壁は角にどっしりとした円塔と、円塔に挟まれた壁面の中央に矩形の塔が張り出しています。かつては合計13の塔が建っていたのだとか(今数えると、円塔と矩形の塔をあわせて7つ)。

広場とは反対側の城壁。城壁の中に宮殿の塔が見える。

他の多くの城と同じように、19世紀初頭の対仏独立戦争で、このお城も大きな被害を受けました。ただし、このお城を破壊したのはナポレオン軍ではなく、ポルトガルから上陸し、フランス軍を撃退すべくスペインに進軍したイギリス軍でした。アリハの城は1887年にも大きな火災にあい、大きな被害を出したとのこと。

村の教会。建築素材はお城と同じ。
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

参考WEB

ビジャヌエバ・デ・ハムース Villanueva de Jamuz

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

ベナベンテからアストルガに向けて、点在する城を探しながら銀の道を北上していくと、ビジャヌエバ・デ・ハムスの村でまず最初に見えるのが、村はずれにあるキニョネス家のお城です。15世紀に建設されたお城は、大きな円塔が特徴。ドン・キホーテにも出てくる実在の騎士スエロ・キニョネスの所領でした。

銀の道(Via de la Plata)を北上すると、ビジャヌエバ・デ・ハムースで最初に見えてくるのが、このお城。
Castillo de Quiñones キニョネス家の城

15世紀初め、ディエゴ・フェルナンデス・デ・キニョネスマリア・デ・トレド夫妻により建設されたお城です。キニョネス家は、レオンのキニョネス・デル・リオにルーツを持つ貴族。ディエゴ・フェルナンデスは、フアン2世の治世で富を築き、「El de la Buena Fortuna」とも呼ばれました。ディエゴは、妻マリアの死後、ビジャヌエバは次男スエロ・キニョネスが相続するよう遺言しますが、スエロも、マリアの死後たった1年で、決闘で受けた傷がもとで死んでしまいます(1458年)。それでも、スエロの足跡は城にもちゃんと遺っており、入口の上にある騎士の紋章はスエロのもの。”Honor o Fin”「名誉か死か」との銘も刻まれています。

本物の騎士のお城

ところで、騎士だったスエロは、「オルビゴ橋でなし遂げた馬上槍試合の偉業」[セルバンテス『ドン・キホーテ』牛島信明訳、前編〈三〉P315より] で有名な人物です。彼は1434年7月に1か月間、カスティージャ王フアン2世の許可を得て、サンティアゴ巡礼路にあるオスピタル・デ・オルビゴ(Hospital de Órbigo)でオルビゴ川にかかる橋に陣取り、思いを寄せる貴婦人の名誉にかけて、橋を通ろうとする騎士に馬上槍試合を挑んでいました。1997年から、この同じ場所で、毎年6月第一週末に中世の槍試合が再現されています。

そして、スエロを死に追いやったのは、グティエレ・デ・キハーダという騎士。こちらもドン・キホーテが「勇猛果敢な…グティエレ・キハーダ(実を言えば、拙者もこのキハーダ家の男子直系の血をひくものでござるが)[牛島信明訳『ドン・キホーテ』より]」と言っていた人物です。グティエレもオルビゴ川の橋での決闘に挑んだ騎士の一人でした(この時、直接は対戦せず)が、グティエレとスエロの間には所領をめぐる争いが背景にあったとみられており、それが、後年の死に至る争いに発展したようです。

スエロの死後、城は息子ディエゴが継ぎますが、彼のいとこでラグーナ・デ・ネグリージョ(Laguna de Negrillo)の城を持つルナ伯爵がビジャヌエバ奪取をもくろみ、近くのサンタ・エレナ村に城の建設をはじめました。そればかりか、アリハ(Alija del Infantado)のペドロ・ピメンテルもこの城を狙っていたとか。ディエゴはカトリック両王に窮状を訴え、その庇護を仰ぎました。

ビジャヌエバの城は、ラグーナ・デ・ネグリージョの城とよく似ています。建設したのはどちらも前述のディエゴとマリアのキニョネス夫妻。さらに実際に城の建築に当たった職人も同じであったと考えられています。

ビジャヌエバはラグーナよりも遅くに建設されており、大きく頑丈な円塔が特徴的。大砲用の銃眼も造られていました。また、現在も遺るお城の周囲に、もう一周、城壁が巡らされていました。

入口の反対側に矩形の主塔(Torre de Homenaje)
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

ポンフェラーダ Ponferrada

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

お城の入り口付近はまさにヨーロッパの中世のお城!堀を渡る橋、城壁にある二つの小塔に挟まれた入口、幾重にも建設された城壁に鉤壁…お城らしい要素が詰まったフォトジェニックなお城です。

Torre de Moclín(左), Torre de la Puerta(中央), 入口、Torre de Cabrera(右)
テンプル騎士団の城 Castillo templario

11世紀、アストルガの司教が、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のためにシル川に橋を架けるよう命じました。この時に造られた橋が鉄で補強されていたため、Pons Ferrata(鉄の橋)からポンフェラーダという名前が生まれたと言われています。

ポンフェラーダの城は、「テンプル騎士団の城」と呼ばれています。1178年、レオン王フェルナンド2世は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者を守るためという理由で、ポンフェラーダをテンプル騎士団に与えました。このうち城に関しては、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世が1204年にテンプル騎士団から取りあげ、1211年に彼らに返したとの記録も遺っています。その理由については、テンプル騎士団がカタリ派との関係を疑われたためとの説もありますが…わかっていません。

他方、レオン王国とカスティージャ王国は、フェルナンド3世(カスティージャ王在位1217年 – 1252年)の治世に統一されるまで、たびたび国境を争っていました(この辺の経緯はティエドラ参照のこと)。1196年、カスティージャ王アルフォンソ8世がポンフェラーダのあるビエルソ地方に進軍。レオン王アルフォンソ9世はこの地方を守るために、村々の植民を強化。こうした背景も、ポンフェラーダをテンプル騎士団に委ねる理由のひとつだったようです。テンプル騎士団は、1226年までに、ここに彼らの城を築きました<13世紀の建設部分>。

ポスト・テンプル騎士団 ― その後のポンフェラーダ

しかし、テンプル騎士団は1312年に教皇庁により正式に禁止され、解体。ポンフェラーダ城は紆余曲折を経て、アルフォンソ11世が1340年にMayordomo mayorペドロ・フェルナンデス・デ・カストロに与えました。この人物が、テンプル騎士団の城塞を改築し、現在も遺る旧城(Castillo viejo)の建設を始めたと推測されています<14世紀の建設部分>。

1343年にペドロの死後ポンフェラーダを相続したのは娘のフアナ・デ・カストロ。早くに最初の夫を亡くし未亡人となったフアナはアルフォンソ11世を継いでカスティージャ王になったペドロ1世に見初められて1354年に結婚したものの、ペドロ1世はすでにフランスの王女ブランシュと結婚していたため、教皇から結婚の取り消しを言い渡され、その後はペドロ1世から譲り受けたドゥエニャス(パレンシア県)で余生を送りました。1374年にフアナが死去すると、内戦の末ペドロ1世を殺して王位に就いていた異母弟エンリケ2世がポンフェラーダを接収。

エンリケ2世は城を息子のエンリケ親王に与えますが、彼が謀反を謀ったため城を取り上げ、これをペドロ・エンリケス(双子の弟ファドリケの子)に与えました。後に城はペドロ・エンリケスの子ファドリケ・エンリケスが相続しますが、アラゴンの親王*たちを支持したことを理由に彼は1430年フアン2世に処刑されてしまいます。未亡人となったファドリケの妻、アルドンサ・デ・メンドサ(父ディエゴ・ウルタド・デ・メンドサ1367-1404―マンサナレス・エル・レアル参照)はこれをいとこのペドロ・マンリケ(1381-1440)与え、さらに息子のディエゴが相続。しかし、フアン2世に処刑されたファドリケ・エンリケスの妹ベアトリスと結婚していたガリシアの貴族ペドロ・アルバレス・オソリオが城の所有権を主張し、城を占拠しました。ベアトリスは、フアン2世から、もともとファドリケのものだった所領を受け取っていたため、ペドロは彼女との結婚により、ガリシアからビエルソ地方にかけて多くの所領を有する有力貴族となっていたのです。

こうした中、1467年、ガリシアおよびビエルソ地方で「イルマンディーニョスの反乱」と呼ばれるの反乱がおこります。飢饉や伝染病の流行などからくる社会不安が高まり、重税を課すなど専横的な貴族たちへの不満を募らせていた人々は「イルマンダーデIrmandade(カスティージャの エルマンダHermandad=自警団)」を結成し、貴族の城や館などを次々に襲いました。多くの城が被害を受ける中、ポンフェラーダもその対象となりましたが、強固な城が反乱に屈することはありませんでした。とはいえ、被害は重大で、反乱後に城の修復は避けられず、この時に、新城と呼ばれる部分が建設されています<15世紀の建設部分>。

旧城の城壁の上から新城を眺める

ペドロ・アルバレス・オソリオは、早世した息子アロンソの庶子ロドリゴ・オソリオ(つまりペドロと最初の妻ベアトリスの孫)に所領を相続させようとしました。ポンフェラーダ城には至る所に紋章があります。ペドロは二人目の妻、マリア・バサンとの婚姻中に建設した部分に、先妻との間の孫にあたるロドリゴがこの城を相続することの正当性を主張すべく、先妻ベアトリスの紋章を設置したのだそうです。

1483年、ペドロ・アルバレス・オソリオが近くのコルナテル城(Castillo de Cornatel)で死去すると、ロドリゴ・オソリオが城を占拠。叔母フアナ(ペドロとマリア・バサンの娘)との間に、ポンフェラーダ城をめぐる闘いが始まります。さらに、前述のディエゴ・マンリケも城の所有権を主張。ここに、カトリック両王が介入し、フアナ・オソリオの所有権を認める裁決を下します。しかし、ロドリゴがこれをつっぱねたため、1486年、カトリック両王はロドリゴの財産を没収するとともに、軍を招集。フアナから城の所有権を買い取り、ポンフェラーダを包囲し、大砲も使った大掛かりな攻撃に打って出ました。ロドリゴは降伏。ポンフェラーダはカトリック両王の所領に。カトリック両王もまた、城の修復と改築に取り掛かります。

しかし、ロドリゴはしぶとかった。1507年に再度ポンフェラーダを占拠。もちろんカトリック両王が黙っているはずもなく、ベナベンテ伯爵やアルバ公爵に命じて軍を派遣。ようやくロドリゴはガリシアへと逃げていきました。

城内解説ボード
黄色:13世紀 / 赤:14世紀(旧城)/ グレー:15-16世紀(新城、外壁など)

というわけで、テンプル騎士団のお城と銘打たれたポンフェラーダ城ですが、実際に騎士団の時代から遺っているのは、入り口から旧城へと向かう城壁部分のみ。のこりは、前述のように、領主が変わるたびに改築・増築が重ねられてきました。15世紀から王領であったポンフェラーダですが、城の重要性は次第になくなっていきます。それでも19世紀までは城壁内に宮殿が遺っていましたが、19世紀以降は城の切り石が新しい建物の建設に使われたり、挙句の果てには城内をサッカー場にするために整地したり…幸い、国が介入し重要文化財に指定したため実際にサッカー場として使われることはなく、さらなる受難は免れました。

城壁を外側から。奥の塔はTorre de Malvecino
おすすめルート

ポンフェラーダまで来たら、ラス・メドゥラスは絶対におすすめ。ラス・メドゥラスへ行く途中に、コルナテル城(Castillo de Cornatel―Villavieja村)があります(山頂に建つ城の雄々しいシルエットに心ひかれたものの、日没により見学することはできませんでした😢。見学は木曜日から日曜日*)。

車で50分ほどの少々ハードな行程ですが、サンティアゴ・デ・ペニャルバ(Santiago de Peñalba)に美しいモサラベの教会があります。(見学は週末のみ…夏休み中も例外はなく、月曜日にポンフェラーダに着いた私は涙をのみました*😢)。ペニャルバが無理でもポンフェラーダの郊外にサント・トマス・デ・ラス・オジャス(Santo Tomás de las Ollas)のモサラベ教会があります。馬蹄形アーチが連なるアプスが美しい。こちらは、教会のある広場に住むおばちゃんがカギを開けて、ガイドもしてくれます*(おしゃべりが止まりません)。

*見学時間等の情報はいずれも2022年のものです。

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