アリハ・デル・インファンタード Alija del Infantado

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

マドリードからガリシアへ向かうA-6をベナベンテ(Benavente)あたりで少し外れ、ローマ時代の銀の道(Via de la Plata)に沿ってラ・バニェサ(La Bañeza)に向けて北上すると、オルビゴ川の河畔に豊かな田園が広がります。

この地の城塞が最初に史料に現れるのは931年。ただし、その後、アリハはポンセ家、キニョネス家、ベナベンテ伯爵家(ピメンテル家)、インファンタード公爵家と領主が変わり、お城もそのたびに改築が重ねられてきました。

広場に面した城壁の銃眼から覗いた中庭。正面に「ポンセ宮殿」の塔。
ピメンテル家の城  Castillo de los Pimentel

現存するお城は、古い城塞の跡に、15世紀から16世紀に建てられたもの。築城主は、お城の呼称にあるように、ピメンテル家(ベルナルディーノ・ピメンテル)とする説と、もう少し後の時代、村の名前にあるように、インファンタード公爵(イニゴ・ロペス・デ・メンドサ・イ・ピメンテル)とする説があります。

ピメンテル家はポルトガルに起源をもつ亡命貴族の一族。14世紀後半、ポルトガル北東部、スペイン国境に近いブラガンサに所領を持っていたフアン・アルフォンソ・ピメンテルは、時のポルトガル王フェルナンド1世の妃の妹フアナ・テジェスと結婚していました。フェルナンド1世が亡くなると、フアン・アルフォンソは、フェルナンド1世の娘ベアトリスが結婚していたカスティージャ王フアン1世のポルトガル王即位を支持します。しかし、ポルトガルのスペインへの併合には抵抗が大きく、結果的にフェルナンド1世の異母弟ジョアン1世が1385年アビス朝を開き、ポルトガルの王位をめぐる争いは終結(この辺の経緯は、バレンシア・デ・ドン・フアン参照)。フアン・アルフォンソははじめ、新しい王に忠誠を誓いますが、のちにカスティージャに亡命し、カスティージャ王フアン1世の子エンリケ3世の家臣に。エンリケ3世は、フアン・アルフォンソにベナベンテ(サモラ北部)の所領と伯爵位を与えました。これが、カスティージャにおけるピメンテル家の始まりです。その後の経緯はベナベンテで。

お城はほぼ正方形の城壁に囲まれ、城壁内部にかつての宮殿の一部だった塔が遺っています。城壁は角にどっしりとした円塔と、円塔に挟まれた壁面の中央に矩形の塔が張り出しています。かつては合計13の塔が建っていたのだとか(今数えると、円塔と矩形の塔をあわせて7つ)。

広場とは反対側の城壁。城壁の中に宮殿の塔が見える。

他の多くの城と同じように、19世紀初頭の対仏独立戦争で、このお城も大きな被害を受けました。ただし、このお城を破壊したのはナポレオン軍ではなく、ポルトガルから上陸し、フランス軍を撃退すべくスペインに進軍したイギリス軍でした。アリハの城は1887年にも大きな火災にあい、大きな被害を出したとのこと。

村の教会。建築素材はお城と同じ。
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

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