ベナベンテ Benavente

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

お城として十分に強固な印象を与える建物ですが、さらに壮大なお城に複数あった塔のひとつに過ぎません。現在はパラドールとなっています。

オルビゴ川、エスラ川、テラ川が交わるベナベンテは、緑豊かな肥沃な地です。カスティージャとガリシアを結ぶ交通の要所でもあり、古くから人々が生活していました。ベナベンテにはフェルナンド2世(レオン王在位:1157-1188)のころから何らかの城塞があったことがわかっています。

高台にあるお城の横の広場から。オルビゴ川、テラ川が流れる方向。真夏でもこんなに緑。
ベナベンテ伯爵-公爵家―ピメンテル家

時は下って14世紀末、カスティージャ王エンリケ3世は、1398年、ポルトガルからカスティージャに亡命してきたフアン・アルフォンソ・ピメンテルアリハ・デル・インファンタード参照)に、ベナベンテの所領と伯爵位を与えました。

ベナベンテ伯爵となったフアン・アルフォンソですが、ベナベンテの人々には歓迎されなかったようです。2年後、ベナベンテの人々は王に対して領主、特に領主を取り巻くポルトガル人たちの専横的な振る舞いについて訴えていました。その後、2代目伯爵ロドリゴ・アロンソは、マジョルガ、ビジャロン(バジャドリード)などに領地を広げ、フランスへの外交使節団に加わるなど活躍、王族アロンソ・エンリケス(エンリケ2世の双子の弟ファドリケの子)の娘レオノールと結婚して王家とのつながりを強めるなど、着々と地位を固めていきます。

エンリケ3世を継いだフアン2世の治世で、2代目、3代目伯爵は何度か王と対立し、その度にベナベンテの城を接収されては返されたりもしていましたが、4代目伯爵でベナベンテ公爵位も授けられたロドリゴ・アロンソ・ピメンテルは、ポルティージョ、プエブラ・デ・サナブリア、ビアナ・デル・ボロなどにも所領を持ち、それぞれに城を建設。ベナベンテにも壮大な城塞宮殿を建設しました。1499年にロドリーゴが死去すると、建築に問題があったのか、城塞宮殿は土台から倒壊の危機にさらされます。ロドリゴの死後ベナベンテを継いだアロンソ・ピメンテル・イ・パチェーコは、城塞宮殿の修復と改築を余儀なくされました。

ピメンテル家の城塞宮殿は、当時、この地を訪れた人物に「グラナダとセビージャの宮殿を除いて、スペインで並ぶものはない」とまで言わしめたほど。「正方形で、4隅に屈強な塔があり、周囲を堀で囲まれ、さらに強固な城壁に守られていた。内部には正方形の中庭があり…贅を尽くした装飾が施されていた」宮殿は、例えば、天井は美しい「アルテソナード」(ムデハルの影響が色濃い極彩色の格子天井)で彩られ、それを支える円柱には、アラバスター、大理石、ジャスパーなどが使われていました。また、城塞宮殿の近くには庭園があり、そこにはラクダ、ライオン、ゾウなどエキゾチックな動物たちが飼われていたとのこと。

この宮殿を訪れた人々の中には、スペイン王位に就いたばかりのフェリペ美公とフアナ女王夫妻(1502年、1506年)や、あのチェーザレ・ボルジア(1506年)がいます。カトリック王フェルナンドによりメディーナ・デル・カンポのモタ城に幽閉されていたチェーザレ・ボルジアは、フェルナンドと対立していたベナベンテ公爵の助けを借りて脱出、ナバラへ向かう途中に公爵の宮殿に立ち寄りました*。*ただし、ベナベンテ公爵の他の宮殿であったとの記述もあり。

トーレ・デル・カラコル Torre del caracol

この贅を尽くした城塞宮殿から唯一現存するのが「トーレ・デル・カラコル(カタツムリの塔、あるいは、螺旋階段の塔)」です。塔に施された紋章は、このアロンソ・ピメンテルと妻アナ・デ・ベラスコのもの。

19世紀、ベナベンテ城は大規模な火災に見舞われ、世紀の終わりごろには、トーレ・デル・カラコルを残し、城塞宮殿跡はすべて取り壊されてしまいました。現存する塔は20世紀中ごろに修復され、1971年に国営パラドールとなり、現在に至ります。現在、この塔には往時をしのばせる美しいアルテソナード(ムデハル様式の格子天井)がありますが、これは近くのサン・ロマン・デル・バジェ教会にあったもの。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期

WEB
泊まれるお城 パラドール
Parador de Benavente
Paseo de la Mota, s/n 49600 Benavente Zamora
+34 980630300

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です