バルシエンセ Barcience

カスティージャ・ラ・マンチャ州トレド県

塔の一面に彫刻された大きなランパント・ライオン(後ろ足で立つ姿のライオン)が最高に格好いい!! 正直、他に見どころはないし、派手な事件が起きたり超有名人が来たり、という話を読んだこともないのですが、こんなスタイリッシュな紋章は他にないっ!というわけで、お城を見るというよりも、このライオンを見に、行ってきました。この紋章は15世紀に城を建設したシルバ家のものです。

バルシエンセ村のはずれ、墓地へ至る道をさらに進むと、城塞が見えてきます。二つの円塔からなる門を通って、お城の本体へ。この二つの円塔は、おそらく城塞を取り囲む外壁にあったもの。外壁の外側には堀もあったようですが、現在は外壁も堀も失われてしまいました。お城は長方形。その城壁の一画に矩形の主塔(Torre de Homenaje)、二隅に円塔、そして、現在は城壁よりも低くなっていますが、主塔よりも大きな長方形の塔が遺っています。前述の堂々たるランパント・ライオンが彫刻されているのは、主塔です。

この辺りには11世紀から12世紀にはすでに何らかのお城があったことも推測されています。この地は13世紀にサンティアゴ騎士団*の手に渡りますが、1454年にサンティアゴ騎士団の騎士団長だったカスティージャ王エンリケ4世が、シルバ家のアルフォンソ・テノリオ(Adelantado)に与えました。現在の城は1456年にシフエンテス伯爵号を与えられたフアン・デ・シルバにより築城が開始され、その孫の代に完成。16世紀になると、大砲や砲兵を配置していたことが記録されていますが、この城が戦闘に巻き込まれたという記録はないとのこと。時代的に見ても防衛用というよりは、領地の人々に権威を誇示するための居城として使われていたようです。

ちなみにシルバ家は、ポルトガルに起源をもつ貴族です。14世紀、ポルトガル王フェルナンド1世の死後、アルフォンソ・テノリオの父アリアス・ゴメス・デ・シルバはカスティージャ王フアン1世(フェルナンド1世の一人娘と結婚していた)のポルトガル王位継承を支持したため、内戦に勝利して王位に就いたジョアン1世(アヴィス朝)にポルトガル国内の所領を渡さざるを得ませんでした。アリアス死後、未亡人となった妻ウラカ・テノリオは兄でトレド大司教ペドロ・テノリオを頼って、カスティージャ宮廷に亡命。この辺の経緯は、ピメンテル家(ベナベンテ)やアクーニャ家(ベルモンテ、バレンシア・デ・ドン・フアン)などとよく似ています。

その後、城はインファンタード公爵家、オスーナ公爵家、パストラナ公爵家の手を経て、パストラナ公爵が教皇レオ13世紀(在位:1878 – 1903)に寄進すると、レオ13世がシリロ・カルデロンなる人物に売却。現在もこの一族の所有です。

何度見てもカッコいい💓
検索キーワード

カスティージャ・ラ・マンチャ州 トレド県 中世後期

WEB

アリハ・デル・インファンタード Alija del Infantado

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

マドリードからガリシアへ向かうA-6をベナベンテ(Benavente)あたりで少し外れ、ローマ時代の銀の道(Via de la Plata)に沿ってラ・バニェサ(La Bañeza)に向けて北上すると、オルビゴ川の河畔に豊かな田園が広がります。

この地の城塞が最初に史料に現れるのは931年。ただし、その後、アリハはポンセ家、キニョネス家、ベナベンテ伯爵家(ピメンテル家)、インファンタード公爵家と領主が変わり、お城もそのたびに改築が重ねられてきました。

広場に面した城壁の銃眼から覗いた中庭。正面に「ポンセ宮殿」の塔。
ピメンテル家の城  Castillo de los Pimentel

現存するお城は、古い城塞の跡に、15世紀から16世紀に建てられたもの。築城主は、お城の呼称にあるように、ピメンテル家(ベルナルディーノ・ピメンテル)とする説と、もう少し後の時代、村の名前にあるように、インファンタード公爵(イニゴ・ロペス・デ・メンドサ・イ・ピメンテル)とする説があります。

ピメンテル家はポルトガルに起源をもつ亡命貴族の一族。14世紀後半、ポルトガル北東部、スペイン国境に近いブラガンサに所領を持っていたフアン・アルフォンソ・ピメンテルは、時のポルトガル王フェルナンド1世の妃の妹フアナ・テジェスと結婚していました。フェルナンド1世が亡くなると、フアン・アルフォンソは、フェルナンド1世の娘ベアトリスが結婚していたカスティージャ王フアン1世のポルトガル王即位を支持します。しかし、ポルトガルのスペインへの併合には抵抗が大きく、結果的にフェルナンド1世の異母弟ジョアン1世が1385年アビス朝を開き、ポルトガルの王位をめぐる争いは終結(この辺の経緯は、バレンシア・デ・ドン・フアン参照)。フアン・アルフォンソははじめ、新しい王に忠誠を誓いますが、のちにカスティージャに亡命し、カスティージャ王フアン1世の子エンリケ3世の家臣に。エンリケ3世は、フアン・アルフォンソにベナベンテ(サモラ北部)の所領と伯爵位を与えました。これが、カスティージャにおけるピメンテル家の始まりです。その後の経緯はベナベンテで。

お城はほぼ正方形の城壁に囲まれ、城壁内部にかつての宮殿の一部だった塔が遺っています。城壁は角にどっしりとした円塔と、円塔に挟まれた壁面の中央に矩形の塔が張り出しています。かつては合計13の塔が建っていたのだとか(今数えると、円塔と矩形の塔をあわせて7つ)。

広場とは反対側の城壁。城壁の中に宮殿の塔が見える。

他の多くの城と同じように、19世紀初頭の対仏独立戦争で、このお城も大きな被害を受けました。ただし、このお城を破壊したのはナポレオン軍ではなく、ポルトガルから上陸し、フランス軍を撃退すべくスペインに進軍したイギリス軍でした。アリハの城は1887年にも大きな火災にあい、大きな被害を出したとのこと。

村の教会。建築素材はお城と同じ。
検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

参考WEB

ビジャヌエバ・デ・ハムース Villanueva de Jamuz

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

ベナベンテからアストルガに向けて、点在する城を探しながら銀の道を北上していくと、ビジャヌエバ・デ・ハムスの村でまず最初に見えるのが、村はずれにあるキニョネス家のお城です。15世紀に建設されたお城は、大きな円塔が特徴。ドン・キホーテにも出てくる実在の騎士スエロ・キニョネスの所領でした。

銀の道(Via de la Plata)を北上すると、ビジャヌエバ・デ・ハムースで最初に見えてくるのが、このお城。
Castillo de Quiñones キニョネス家の城

15世紀初め、ディエゴ・フェルナンデス・デ・キニョネスマリア・デ・トレド夫妻により建設されたお城です。キニョネス家は、レオンのキニョネス・デル・リオにルーツを持つ貴族。ディエゴ・フェルナンデスは、フアン2世の治世で富を築き、「El de la Buena Fortuna」とも呼ばれました。ディエゴは、妻マリアの死後、ビジャヌエバは次男スエロ・キニョネスが相続するよう遺言しますが、スエロも、マリアの死後たった1年で、決闘で受けた傷がもとで死んでしまいます(1458年)。それでも、スエロの足跡は城にもちゃんと遺っており、入口の上にある騎士の紋章はスエロのもの。”Honor o Fin”「名誉か死か」との銘も刻まれています。

本物の騎士のお城

ところで、騎士だったスエロは、「オルビゴ橋でなし遂げた馬上槍試合の偉業」[セルバンテス『ドン・キホーテ』牛島信明訳、前編〈三〉P315より] で有名な人物です。彼は1434年7月に1か月間、カスティージャ王フアン2世の許可を得て、サンティアゴ巡礼路にあるオスピタル・デ・オルビゴ(Hospital de Órbigo)でオルビゴ川にかかる橋に陣取り、思いを寄せる貴婦人の名誉にかけて、橋を通ろうとする騎士に馬上槍試合を挑んでいました。1997年から、この同じ場所で、毎年6月第一週末に中世の槍試合が再現されています。

そして、スエロを死に追いやったのは、グティエレ・デ・キハーダという騎士。こちらもドン・キホーテが「勇猛果敢な…グティエレ・キハーダ(実を言えば、拙者もこのキハーダ家の男子直系の血をひくものでござるが)[牛島信明訳『ドン・キホーテ』より]」と言っていた人物です。グティエレもオルビゴ川の橋での決闘に挑んだ騎士の一人でした(この時、直接は対戦せず)が、グティエレとスエロの間には所領をめぐる争いが背景にあったとみられており、それが、後年の死に至る争いに発展したようです。

スエロの死後、城は息子ディエゴが継ぎますが、彼のいとこでラグーナ・デ・ネグリージョ(Laguna de Negrillo)の城を持つルナ伯爵がビジャヌエバ奪取をもくろみ、近くのサンタ・エレナ村に城の建設をはじめました。そればかりか、アリハ(Alija del Infantado)のペドロ・ピメンテルもこの城を狙っていたとか。ディエゴはカトリック両王に窮状を訴え、その庇護を仰ぎました。

ビジャヌエバの城は、ラグーナ・デ・ネグリージョの城とよく似ています。建設したのはどちらも前述のディエゴとマリアのキニョネス夫妻。さらに実際に城の建築に当たった職人も同じであったと考えられています。

ビジャヌエバはラグーナよりも遅くに建設されており、大きく頑丈な円塔が特徴的。大砲用の銃眼も造られていました。また、現在も遺るお城の周囲に、もう一周、城壁が巡らされていました。

入口の反対側に矩形の主塔(Torre de Homenaje)
検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

フリアス Frías

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

村のはずれに立つ岩山の頂に、村の上に張り出すように建つお城。今にも家々の上に落ちてきそうです。実際に、過去には、城からの落石で命を落とした人もいたそうです。

城の入り口は、この塔の反対側にあります。村からは上り坂ですが入り口付近は平らなので、こちら側の警備は厳重でした。お城に入るには、跳ね橋を通って堀を渡ります。跳ね橋を渡ったら左に曲がり、堀沿いの外壁と城塞に挟まれた細い通路を進み主要門へ。主要門を入ったら今度は右に曲がって初めて城内に入ることができます。城に入るまでの間、跳ね橋のアーチの上から、通路の両側の城壁の上から、主要門の塔の上から、絶えず監視の目が光っていたわけです。

城内は不規則な四角形。入口から見ると正面に、先ほど村から仰ぎ見ていた主塔が建っています。主要門から見て左側の壁には二重アーチ窓が三つ並んでおり、騎士や神話上の動物(ハルピュイア:鷲のからだに女性の頭を持つ怪物)をモチーフとした装飾が美しいロマネスクの柱頭が、武骨な要塞建築の中で異彩を放っています。おそらくこの部分が城の最古の部分。城主の住居があった場所と思われます。反対側の壁沿いには兵舎や厩舎がありました。

柱頭の装飾が美しい二重窓

フリアスが史料に現れるのは9世紀。エブロ川上流域のレコンキスタが完了しキリスト教徒の村々ができていた頃。ナバラ、レオン、カスティージャを統一したナバラ王<大王>サンチョ3世(在位1000-1035)の死後、3人の息子たちが王国を分割相続すると、フリアスはナバラ領となりましたが、1054年にアタプエルカ(ブルゴス県)の戦いでカスティージャ王フェルナンド1世がナバラを退け、以後、カスティージャ領に。とはいえ、その後もしばらくはこの辺りでは、ナバラとの国境争いが続きます。

フリアスが繁栄したのは、カスティージャ王アルフォンソ8世(在位1158-1214)の時代。これまでメリンダデスと呼ばれるこの地方の行政の中心はペララダ城(1140ナバラ王による建設)でしたが、アルフォンソ8世がその役割をフリアス城に与え、防衛上もここを拠点としました。

現存する城の最古の建築部分はこのころの建設と考えられています。アルフォンソ8世は、ナバラ王国との国境線を防衛するために、近くのメディナ・デ・ポマールなどと併せて防衛ラインを築こうと、再植民に力を入れます。

このころ城塞主は世襲制ではなく、あくまでも王から任命されるものでした。フリアスの近くオニャの修道院長が、フリアス城塞主の横暴な振る舞いに対して、王に苦言を呈したという記録も遺っているそうです。しかし、レコンキスタの進行やキリスト教国間の国境の移動や消滅などによって、防衛上の重要地点が変化したり、貴族の力が強くなってくると、王は城塞を含めて所領を家臣に与えるようになり、貴族が所有する城が増えていきます。特に、14世紀のカスティージャ王位をめぐる内戦はその傾向に拍車をかけました。フリアスもその一例です。

1394年カスティージャ王エンリケ3世は、フリアスをディエゴ・ロペス・デ・スニガに与えるも、2年後にベハル(サラマンカ県)と引き換えにフリアスを取り戻し、「今後、いかなる王もフリアスを他の者に与えることはできない」という勅令を出しました。にも拘わらず、1446年息子のフアン2世はフリアスをペニャフィエル(バジャドリード県)と引き換えにペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの父親。メディナ・デ・ポマール参照)に与え、フリアスの城は決定的に王権を離れます。これまで特別法を享受していた村人たちは、新しい城主に過酷な納税を要求されることを恐れ、その入場を阻止しようと蜂起!しかし、強大な軍事力を持つ大貴族が相手では、その顛末は明らかなこと。結局、包囲戦の末、降伏を余儀なくされました。この戦いの様子は現在でも「フィエスタ・デ・カピタン」と呼ばれる村祭りで語り継がれています。

この戦いの中で元からあった城塞はかなりの被害を受けたのか、ペドロ・フェルナンデスは直ちに城を修復。入口付近の外堀や二重の城壁、主要門のある塔などを新たに建設しました。村の上に張り出す主塔も15世後半の建設。村人たちに権威を誇示しています。

その後、ベラスコ家はカトリック両王の時代にフリアス公爵位を授かるなど、隆盛していきますが、フリアスは16世紀にコムニダーデスの乱に巻き込まれ、17世紀にはペストにより人口が激減。歴史の表舞台から姿を消していきます。

フリアスのもう一つの象徴は、エブロ川にかかる美しい橋。満々と水をたたえて地中海に流れ込むエブロ川ですが、フリアスではまだ生まれたてです。橋の本体は12世紀のロマネスク建築。橋の中ほどに建つ塔は14世紀のゴシック建築です。塔の上部には鋸壁や石落としもあり、なかなか強固な警備体制だったことがうかがえます。ラス・メリンダデスと呼ばれるこの地方から、南のブレバ地方(ブルゴス県)や東のリオハ方面に向かうためにはこの塔で橋通行税(Pontazgo)を払わなければなりませんでした。

お城から橋を眺めて…

おすすめルートは、ポサ・デ・ラ・サル参照。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世前期 中世後期 フリアス公爵