ビジャロンソ Villalonso

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

15世紀後半にカスティージャで流行ったデザインのお城です。ティエドラ城の塔の上からすぐ近くに見えます。

バジャドリード派

カスティージャ王エンリケ4世(在位1454-1475)がメディナ・デル・カンポやポルティージョの城の改築を行うと、それに倣って、多くの貴族が自分の領地に城を建設、あるいは既存の城を改築しました。このころにバジャドリードを中心に建設された城は皆、ほぼ正方形の城壁に守られ、その一角に正方形の主塔が建つという、ビジャロンソの城によく似たデザイン。これらの城はバジャドリード派と呼ばれます。ただし、戦いにはすでに大砲が使われており、華奢な塔は大砲を前に防衛施設の役にはあまり立たなくなっていました(参照:フエンテス・デ・バルデペロ)。城はむしろ所領の人々に対して権力を誇示するためのものとなっていきます。

騎士団

ビジャロンソは中世を通じて、様々な手に委ねられました。15世紀初頭、アルカンタラ騎士団*の手にあったビジャロンソを、アロンソ・ペレス・デ・ビベロが購入。1470年に彼がフアン・デ・ウジョアに、他の領地と交換する形で譲渡しました。フアンは、周囲の領地とともにマヨラスゴ(長子が一括して相続する財産)を創設し、現存する城を建設。この場所にはおそらくアルカンタラ騎士団の要塞があったものと推測されます。

カスティージャ王位継承戦争 ― 未亡人マリア・サルミエント

1474年、エンリケ4世が死去すると、カスティージャ王位をめぐって王の異母妹イサベル1世と庶子フアナ(ラ・ベルトラネハ)の間で内戦が勃発します。フアン・デ・ウジョアはフアナ側を支持。この時、フアンはトーロ(サモラ県)のアルカサルの城塞主でした。この内戦の中、王位の行方を決定づけたのが1476年の「トーロの戦い」です。カスティージャに進軍していたポルトガル王アルフンソ5世軍(寡夫となっていたアルフォンソ5世―43歳―は、14歳のフアナと婚約しカスティージャ王位を狙う)はイサベル1世の夫フェルナンド率いる軍に敗れるも、ポルトガル王太子ジョアン軍はカスティージャ軍を殲滅…。多くの戦死者を出した戦いでしたが、はっきりとした勝者はないまま戦闘は終わりました。しかし、この戦い以降、フアナ派はカスティージャ内での支持を失って行き(これには、トーロの戦い後、フェルナンドが国内外にカスティージャ勝利を知らせる使者を送ったことも影響していると言われる)、翌年のアルカソヴァ条約で内戦は終結、女王イサベル1世の地位が固まりました。

この戦いの初期に、トーロ城塞主だったフアン・デ・ウジョアは戦死してしまいました。未亡人となった妻のマリア・サルミエントはしばらくトーロで抵抗を続けます。結局、彼女はトーロはもちろん、モタ・デ・マルケスなど複数の所領をイサベル王女に譲渡せざるを得なくなりますが、交渉のすえ、なんとかビジャロンソの保有は許されて、トーロの城を明け渡しました。

コムニダーデスの乱

さらにフアンとマリアの子ディエゴ・デ・ウジョアも、16世紀のコムニダーデスの乱(参照:フエンテス・デ・バルデペロ)で蜂起軍に加担(また負け組に加担してしまった…)。反乱終結後にはあわや死刑!になるところでしたが、1万ドゥカドを払って死刑を回避し、ビジャロンソも含め財産もすべて取り戻しました。

わずかだが外壁が遺る
ビジャロンソ城 Castillo de Villalonso

城を囲んでいた堀はほぼ埋まり、大砲の使用が考慮された大きな鋸壁を有する外側の城壁は(おそらく、前述のカスティージャ王位継承戦争の際に建設された)ほんの一部が遺っているだけですが、主塔をはじめ、城の本体はよく保存されています。ほぼ正方形の城壁の4隅に円塔、東側の城壁の中央に堂々たる主塔が建っています。城への入り口は主塔の左側。入口の上にある二つの紋章は、ウジョア家(右)とサルミエント家のものです。主塔への入り口は中庭に面した2階に開いています。

1970年代には、ショーン・コネリーとオードリ・ヘップバーン主演『ロビンとマリアン』など、たびたび映画の撮影に使われていました。

現在、この城は個人が所有しています。1980年代にオスナ公爵家から城を買った現在の所有者が修復し、一般に公開中(ただし、夏季日曜日午前中のみ 2021年現在)。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 バジャドリード派 

ティエドラ Tiedra

カスティージャ・イ・レオン州バジャドリード県

どっしりとした塔を城壁が取り囲む、カスティージャ地方によくあるタイプのお城です。お城の起源はおそらく12世紀。イベリア半島の北部でレオン王国、カスティージャ王国、アラゴン王国が覇権を争っていた時代です。

村に近いこちら側の城壁は14世紀の建設
12世紀 ―レオン王国 VS カスティージャ王国

711年にイベリア半島に上陸したイスラム教勢力を、半島北部コバドンガで退けたドン・ペラヨが築いたとされるアストゥリアス王国の系譜を継いだのがレオン王国。レオン王国の辺境で生まれたカスティージャ伯領から誕生したのがカスティージャ王国。11世紀、カスティージャ王国初代王フェルナンド1世がレオン王ベルムード3世から王位を奪い(1037年)、レオン―カスティージャ同君連合王国が誕生します。しかし、1065年フェルナンド1世が没すると、カスティージャを長男のサンチョ2世、レオンを次男のアルフォンソ6世がそれぞれ相続したため連合王国は分裂。サンチョ2世は兄弟たちから力づくで王位を奪い半島北部の再統一を目指すも、1072年サモラで暗殺されてしまいます。すると、弟のレオン王アルフォンソ6世がカスティージャ王位を継承し、再びレオン-カスティージャ同君連合が成立。アルフォンソ6世の孫アルフォンソ7世の死後(1157年)に再び分裂しますが、アルフォンソ7世の孫レオン王アルフォンソ9世の死後、その子ですでにカスティージャ王位を継いでいたフェルナンド3世(母はカスティージャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲーラ)が1230年レオン王位も継承し(ベナベンテ協定)、以降、両国が分裂することはありませんでした。

ティエドラ城 Castillo de Tiedra

ティエドラの城が文献に現れるのは、11世紀。カスティージャ王サンチョ2世の時代(在位1065-1072)。父であるカスティージャ王フェルナンド1世から王位を継いだサンチョが、サモラの所領を巡って姉ウラカと交わした文書が遺っており、その中に、ティエドラの城も出てくるのだそうです。12世紀、アルフォンソ7世の死後再びレオン―カスティージャが分裂すると、ティエドラはレオン王フェルナンド2世(在位: 1157-1188)が相続。このころ、ティエラ・デ・カンポスと呼ばれるこの地方は、しばしば両王国の戦闘の場となりました。フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世(在位: 1188-1230) は、カスティージャ王国との闘いのなか、和睦のためにカスティージャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲーラと結婚しますが、教皇の許可を得られずに離婚。その賠償としてティエドラの城を彼女に与えました。

ここから、城の持ち主が変わる経緯ですが、長いうえややこしいので飛ばしてくださって構いません。

13世紀、アルフォンソ10世を継いだサンチョ4世は、1285年、側近(Mayordomo mayo)ペドロ・アルバレスにティエドラを与えました。その娘テレサは、サンチョ4世の妻マリア・デ・モリーナの兄で、メネセス(パレンシア)の領主だったアルフォンソ・テジェス・デ・モリーナと結婚しており、こうしてティエドラはメネセス家の所領に。

その後、アルフォンソの孫アルフォンソ・テジェス・デ・メネセスが若くして亡くなったため、ティエドラをはじめ所領は妹のイサベル・テジェスが相続。彼女はアルブルケルケ領主フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケと結婚していました。フアン・アルフォンソはカスティージャ王ペドロ1世(残酷王/在位: 1350-1369)の側近でしたが、エンリケ2世との王位をめぐる内戦の最中、敵側に通じたために(おそらく)ペドロ1世の命により毒殺されてしまいました。ティエドラは内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世(在位: 1369-1379) の手に。彼はティエドラをはじめ所領を弟のサンチョに与え、アルブルケルケ伯爵位を授けました。

初代アルブルケルケ伯爵サンチョの娘、レオノールは後にアラゴン王位を継ぐフェルナンド・デ・アンテケーラ(アラゴン王在位 1412-1416)と結婚。ティエドラはその子どもたち「アラゴンの親王たち」の手に。後にフアン2世(在位: 1406-1454)が彼らからティエドラを接収し、ヒロン家に与えました。

…すみません。長くなってしまいました。

ティエドラ城の建設は12世紀?

ティエドラ城で最も古い部分は、城壁の北面と東面。12世紀、レオンとカスティージャが覇権を争っていたころに、ティエドラの村を囲む市壁が建設され、この部分はその一部であったと考えられています。ティエドラ城の前身は、村全体を防衛するために、市壁の内部にありました。

塔が建設された時期については異論がありますが、13世紀から14世紀初め、メネセス家により建設されたと考えられてきました。ただし、切石が周囲の城に比べて小さいことや、入り口のアーチが他の城には見られないものであることなどから、古い城壁とほぼ同じ時期、1200年ごろの建設とする意見もあります。11mx9mのほぼ正方形の塔は、高さ28m。地上部分は3層に分かれており、さらに地下階もあります(地下は見学不可)。

そして、14世紀に、現在の城壁の南面と西面が建設され、塔は村から隔離されました。こうして、市壁内にあった城を村から隔離して独立した城とすることは、13世紀末から14世紀にかけて、貴族の所領が多くなっていく中でよく行われていたのだそうです。

早春のティエドラ

2004年にティエドラ村が城を買い取り、修復を経て公開されています。

おすすめルート

塔の上から南に見えるお城はビジャロンソ城。そして、ここまで来たら、もうひとつ必見があります。近くのサン・セブリアン・デ・マソテにあるサン・シプリシオ教会は、馬蹄形アーチが連なる美しいモサラベ*の教会です(左の写真)。

バジャドリードから→20km→バンバのモサラベ教会→24km→サン・セブリアン・デ・マソテのモサラベ教会→9km→ロマネスクの香部屋Sacristiaが遺るシトー会の修道院、サンタ・エスピーナ修道院→10km→城壁に囲まれた村ウルエニャ→14km→ティエドラ城→9km→ビジャロンソ城→33km→トルデシージャス

1日でモサラベの教会と中世のお城を満喫💓。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 バジャドリード県 中世前期 中世後期

モンテフラドのローマ・トンネル Túnel romano de Montefurado

ガリシア州ルーゴ県

レオン県ポンフェラーダからラス・メドゥラスを経てオウレンセへ行く途中、連れに、「そういえばこの辺にローマのトンネルがあった…」と、問答無用で連れて行かれたのが、シル川(Rio Sil)の辺にあるモンテフラド村。てっきりローマ街道のトンネルかと思ったら、この『ローマ・トンネル』、人が通るためではなく水を流すためのトンネルでした。

モンテフラド側から見たトンネル

水力による浸食で岩に穴があいたわけではなく、川筋を変えるために人工的に岩山を掘って造られたトンネルです。目的は、金の採集でした。グーグルマップで見るとよくわかりますが、シル川はこのあたりで大きく蛇行しています。トンネルを作って川筋を変え、この曲がりくねった部分の川床を露出させて、そこに堆積していた金を採集していたというわけです。

そのトンネルがある辺りからモンテフラドの村を見ると、ラス・メドゥラスのミニチュア版のような、赤土の丘(というには小さいか…大きな蟻塚のような感じ)がいくつも見えます。これも、金鉱跡です。ラス・メドゥラスに比べるとかなり小さな規模ですが、使われた採掘技術は同じ。高地から水を引いてきて、金脈の眠る場所に縦横に出口のないトンネルを掘って水を流して土砂崩れを起こし、川下でその土砂の中から金を採集していたのでした。ちなみに、地名のMonte Furadoですが、“Furar”はガリシア語で「穴をあける」という意味だそうです。

川辺から見たモンテフラドの村。ミニチュア版ラス・メドゥラス

ラス・メドゥラスはもちろん、ガリシアのシル川やミーニョ川の流域、アストゥリアスには古代、金が豊富でした。「オウレンセ」の地名は、ラテン語のAuriense(金の町)が語源であるとも言われています*。

*温泉が湧くことから、aquae urente(熱い水)を語源とする説もあるそうです。いずれにせよ、日本人にはちょっと嬉しくなってしまう語源です。

現在、トンネルの長さは52メートルほどですが、もとは120メートルもあったそうです。1934年の洪水で半分ほど崩れてしまいました。この時にトンネルもふさがれ、水はもともとの川筋に戻りましたが、内戦後にトンネルが修復され現在に至ります。トンネルの上には城塞もあったそうですが、トンネルが崩れた際に城もこわれてしまったとのこと。

参照WEB
検索キーワード

ガリシア州 ルーゴ県 ローマ 産業遺産

ポンフェラーダ Ponferrada

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

お城の入り口付近はまさにヨーロッパの中世のお城!堀を渡る橋、城壁にある二つの小塔に挟まれた入口、幾重にも建設された城壁に鉤壁…お城らしい要素が詰まったフォトジェニックなお城です。

Torre de Moclín(左), Torre de la Puerta(中央), 入口、Torre de Cabrera(右)
テンプル騎士団の城 Castillo templario

11世紀、アストルガの司教が、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のためにシル川に橋を架けるよう命じました。この時に造られた橋が鉄で補強されていたため、Pons Ferrata(鉄の橋)からポンフェラーダという名前が生まれたと言われています。

ポンフェラーダの城は、「テンプル騎士団の城」と呼ばれています。1178年、レオン王フェルナンド2世は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者を守るためという理由で、ポンフェラーダをテンプル騎士団に与えました。このうち城に関しては、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世が1204年にテンプル騎士団から取りあげ、1211年に彼らに返したとの記録も遺っています。その理由については、テンプル騎士団がカタリ派との関係を疑われたためとの説もありますが…わかっていません。

他方、レオン王国とカスティージャ王国は、フェルナンド3世(カスティージャ王在位1217年 – 1252年)の治世に統一されるまで、たびたび国境を争っていました(この辺の経緯はティエドラ参照のこと)。1196年、カスティージャ王アルフォンソ8世がポンフェラーダのあるビエルソ地方に進軍。レオン王アルフォンソ9世はこの地方を守るために、村々の植民を強化。こうした背景も、ポンフェラーダをテンプル騎士団に委ねる理由のひとつだったようです。テンプル騎士団は、1226年までに、ここに彼らの城を築きました<13世紀の建設部分>。

ポスト・テンプル騎士団 ― その後のポンフェラーダ

しかし、テンプル騎士団は1312年に教皇庁により正式に禁止され、解体。ポンフェラーダ城は紆余曲折を経て、アルフォンソ11世が1340年にMayordomo mayorペドロ・フェルナンデス・デ・カストロに与えました。この人物が、テンプル騎士団の城塞を改築し、現在も遺る旧城(Castillo viejo)の建設を始めたと推測されています<14世紀の建設部分>。

1343年にペドロの死後ポンフェラーダを相続したのは娘のフアナ・デ・カストロ。早くに最初の夫を亡くし未亡人となったフアナはアルフォンソ11世を継いでカスティージャ王になったペドロ1世に見初められて1354年に結婚したものの、ペドロ1世はすでにフランスの王女ブランシュと結婚していたため、教皇から結婚の取り消しを言い渡され、その後はペドロ1世から譲り受けたドゥエニャス(パレンシア県)で余生を送りました。1374年にフアナが死去すると、内戦の末ペドロ1世を殺して王位に就いていた異母弟エンリケ2世がポンフェラーダを接収。

エンリケ2世は城を息子のエンリケ親王に与えますが、彼が謀反を謀ったため城を取り上げ、これをペドロ・エンリケス(双子の弟ファドリケの子)に与えました。後に城はペドロ・エンリケスの子ファドリケ・エンリケスが相続しますが、アラゴンの親王*たちを支持したことを理由に彼は1430年フアン2世に処刑されてしまいます。未亡人となったファドリケの妻、アルドンサ・デ・メンドサ(父ディエゴ・ウルタド・デ・メンドサ1367-1404―マンサナレス・エル・レアル参照)はこれをいとこのペドロ・マンリケ(1381-1440)与え、さらに息子のディエゴが相続。しかし、フアン2世に処刑されたファドリケ・エンリケスの妹ベアトリスと結婚していたガリシアの貴族ペドロ・アルバレス・オソリオが城の所有権を主張し、城を占拠しました。ベアトリスは、フアン2世から、もともとファドリケのものだった所領を受け取っていたため、ペドロは彼女との結婚により、ガリシアからビエルソ地方にかけて多くの所領を有する有力貴族となっていたのです。

こうした中、1467年、ガリシアおよびビエルソ地方で「イルマンディーニョスの反乱」と呼ばれるの反乱がおこります。飢饉や伝染病の流行などからくる社会不安が高まり、重税を課すなど専横的な貴族たちへの不満を募らせていた人々は「イルマンダーデIrmandade(カスティージャの エルマンダHermandad=自警団)」を結成し、貴族の城や館などを次々に襲いました。多くの城が被害を受ける中、ポンフェラーダもその対象となりましたが、強固な城が反乱に屈することはありませんでした。とはいえ、被害は重大で、反乱後に城の修復は避けられず、この時に、新城と呼ばれる部分が建設されています<15世紀の建設部分>。

旧城の城壁の上から新城を眺める

ペドロ・アルバレス・オソリオは、早世した息子アロンソの庶子ロドリゴ・オソリオ(つまりペドロと最初の妻ベアトリスの孫)に所領を相続させようとしました。ポンフェラーダ城には至る所に紋章があります。ペドロは二人目の妻、マリア・バサンとの婚姻中に建設した部分に、先妻との間の孫にあたるロドリゴがこの城を相続することの正当性を主張すべく、先妻ベアトリスの紋章を設置したのだそうです。

1483年、ペドロ・アルバレス・オソリオが近くのコルナテル城(Castillo de Cornatel)で死去すると、ロドリゴ・オソリオが城を占拠。叔母フアナ(ペドロとマリア・バサンの娘)との間に、ポンフェラーダ城をめぐる闘いが始まります。さらに、前述のディエゴ・マンリケも城の所有権を主張。ここに、カトリック両王が介入し、フアナ・オソリオの所有権を認める裁決を下します。しかし、ロドリゴがこれをつっぱねたため、1486年、カトリック両王はロドリゴの財産を没収するとともに、軍を招集。フアナから城の所有権を買い取り、ポンフェラーダを包囲し、大砲も使った大掛かりな攻撃に打って出ました。ロドリゴは降伏。ポンフェラーダはカトリック両王の所領に。カトリック両王もまた、城の修復と改築に取り掛かります。

しかし、ロドリゴはしぶとかった。1507年に再度ポンフェラーダを占拠。もちろんカトリック両王が黙っているはずもなく、ベナベンテ伯爵やアルバ公爵に命じて軍を派遣。ようやくロドリゴはガリシアへと逃げていきました。

城内解説ボード
黄色:13世紀 / 赤:14世紀(旧城)/ グレー:15-16世紀(新城、外壁など)

というわけで、テンプル騎士団のお城と銘打たれたポンフェラーダ城ですが、実際に騎士団の時代から遺っているのは、入り口から旧城へと向かう城壁部分のみ。のこりは、前述のように、領主が変わるたびに改築・増築が重ねられてきました。15世紀から王領であったポンフェラーダですが、城の重要性は次第になくなっていきます。それでも19世紀までは城壁内に宮殿が遺っていましたが、19世紀以降は城の切り石が新しい建物の建設に使われたり、挙句の果てには城内をサッカー場にするために整地したり…幸い、国が介入し重要文化財に指定したため実際にサッカー場として使われることはなく、さらなる受難は免れました。

城壁を外側から。奥の塔はTorre de Malvecino
おすすめルート

ポンフェラーダまで来たら、ラス・メドゥラスは絶対におすすめ。ラス・メドゥラスへ行く途中に、コルナテル城(Castillo de Cornatel―Villavieja村)があります(山頂に建つ城の雄々しいシルエットに心ひかれたものの、日没により見学することはできませんでした😢。見学は木曜日から日曜日*)。

車で50分ほどの少々ハードな行程ですが、サンティアゴ・デ・ペニャルバ(Santiago de Peñalba)に美しいモサラベの教会があります。(見学は週末のみ…夏休み中も例外はなく、月曜日にポンフェラーダに着いた私は涙をのみました*😢)。ペニャルバが無理でもポンフェラーダの郊外にサント・トマス・デ・ラス・オジャス(Santo Tomás de las Ollas)のモサラベ教会があります。馬蹄形アーチが連なるアプスが美しい。こちらは、教会のある広場に住むおばちゃんがカギを開けて、ガイドもしてくれます*(おしゃべりが止まりません)。

*見学時間等の情報はいずれも2022年のものです。

参照WEB
検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 テンプル騎士団 中世前期 中世後期

ゴルマス Gormaz

カスティージャ・イ・レオン州ソリア県

丘の上に建つ巨大な要塞。見どころは何と言っても、城壁の南面に開く2重の大馬蹄形アーチです。城からの眺めも圧巻。カスティージャの大地をはるか彼方まで見渡せる。この城の存在意義がよくわかる眺めです。

ゴルマス城 Fortaleza de Gormaz

965-66年、コルドバ後ウマイヤ朝のアルハカム2世によりこの地方に派遣されていた「ガーリブ将軍」(スペイン語の文献に現れる呼称。後ウマイヤ朝の3人のカリフ―アブデラマンIII、アルハカムII 、ヒシャムII―に仕えた軍人)により建設(あるいは再建)が命じられたと伝えられており、近くの教会から建設年や当時のカリフ、アルハカム2世の名を刻んだ礎石が発見されたことからも、この時期に建設されたのは確かなようです。ちょうど、コルドバに都を置いた後ウマイヤ朝が繁栄を極めていたころ。近くを流れるドゥエロ川が南のアルアンダルス(イスラム教勢力圏)と北のキリスト教勢力圏を分ける境界線となっており、ゴルマスから80km南にあるメディナセリが、後ウマイヤ朝の辺境防衛最重要拠点でした。彼らはゴルマスに、北方のキリスト教勢力ににらみを利かせるための前線基地的な役割を担わせたかったのでしょう。軍事的にも行政的にも重要な城だったことをうかがわせる、威厳を感じさせる城です。

当時のこの地域は両勢力の進軍が絶えず、ゴルマス城も両者の間を行き来していました。実際に975年にはレオン・ナバラのキリスト教王国連合軍が城を包囲するも、ガーリブ軍がこれを撃破。しかし、3年後にはキリスト教軍が奪い返し、その後アルマンソール*が奪回…

完全にカスティージャ王国領になったのは、初代王フェルナンド1世が現在のグアダラハラまでを征服した11世紀後半のこと。1087年には、アルフォンソ6世がエル・シド*にゴルマスを与え、エル・シドの死後は再び王領になっています。しかし、14世紀の内戦を経て、他の多くの城と同様、ゴルマスもカスティージャ王家を離れて貴族の所領に。1395年、エンリケ3世によりメンドサ家(参照:マンサナレス・エル・レアル)に与えられました。

城塞の全体像(北側)

小高い丘の頂上に地形に合わせて建設された城は、とにかく大きい!高さ10m以上、周囲1,000mを超える城壁に囲まれ、城壁から突き出た28の塔が並んでいます。

城壁に囲まれた西側の広大な部分は軍隊が集い、戦争に必要な軍馬や武器などが保管されていた場所。現在、城壁の中は草が生え石が転がる更地ですが、何といっても、目玉は南の壁面に開いた美しい2重の大馬蹄形アーチ!! アルハンブラの裁きの門を思わせる堂々たる馬蹄形アーチがこんなに北で見られるなんて!

東端はアルカサル。城の心臓部分です。こちらは城の内壁も多少は遺っており、主塔、10万リットルの容量がある貯水槽など、往時の間取りを想像することもできます。また、この部分には14世紀の改築の跡も遺っており、この時に、アルカサルの西側に堀が掘られ、この部分の城壁が高く改築され、城内西側の広場からアルカサルへの入り口となっている塔(トラスタマラ塔)が建設されました。少数で防衛できるよう、城の一部分の防衛を強化したものと推測されます。

検索キーワード

カスティージャ・イ・レオン州 ソリア県 アルアンダルス 中世前期 中世後期