アリハ・デル・インファンタード Alija del Infantado

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

マドリードからガリシアへ向かうA-6をベナベンテ(Benavente)あたりで少し外れ、ローマ時代の銀の道(Via de la Plata)に沿ってラ・バニェサ(La Bañeza)に向けて北上すると、オルビゴ川の河畔に豊かな田園が広がります。

この地の城塞が最初に史料に現れるのは931年。ただし、その後、アリハはポンセ家、キニョネス家、ベナベンテ伯爵家(ピメンテル家)、インファンタード公爵家と領主が変わり、お城もそのたびに改築が重ねられてきました。

広場に面した城壁の銃眼から覗いた中庭。正面に「ポンセ宮殿」の塔。
ピメンテル家の城  Castillo de los Pimentel

現存するお城は、古い城塞の跡に、15世紀から16世紀に建てられたもの。築城主は、お城の呼称にあるように、ピメンテル家(ベルナルディーノ・ピメンテル)とする説と、もう少し後の時代、村の名前にあるように、インファンタード公爵(イニゴ・ロペス・デ・メンドサ・イ・ピメンテル)とする説があります。

ピメンテル家はポルトガルに起源をもつ亡命貴族の一族。14世紀後半、ポルトガル北東部、スペイン国境に近いブラガンサに所領を持っていたフアン・アルフォンソ・ピメンテルは、時のポルトガル王フェルナンド1世の妃の妹フアナ・テジェスと結婚していました。フェルナンド1世が亡くなると、フアン・アルフォンソは、フェルナンド1世の娘ベアトリスが結婚していたカスティージャ王フアン1世のポルトガル王即位を支持します。しかし、ポルトガルのスペインへの併合には抵抗が大きく、結果的にフェルナンド1世の異母弟ジョアン1世が1385年アビス朝を開き、ポルトガルの王位をめぐる争いは終結(この辺の経緯は、バレンシア・デ・ドン・フアン参照)。フアン・アルフォンソははじめ、新しい王に忠誠を誓いますが、のちにカスティージャに亡命し、カスティージャ王フアン1世の子エンリケ3世の家臣に。エンリケ3世は、フアン・アルフォンソにベナベンテ(サモラ北部)の所領と伯爵位を与えました。これが、カスティージャにおけるピメンテル家の始まりです。その後の経緯はベナベンテで。

お城はほぼ正方形の城壁に囲まれ、城壁内部にかつての宮殿の一部だった塔が遺っています。城壁は角にどっしりとした円塔と、円塔に挟まれた壁面の中央に矩形の塔が張り出しています。かつては合計13の塔が建っていたのだとか(今数えると、円塔と矩形の塔をあわせて7つ)。

広場とは反対側の城壁。城壁の中に宮殿の塔が見える。

他の多くの城と同じように、19世紀初頭の対仏独立戦争で、このお城も大きな被害を受けました。ただし、このお城を破壊したのはナポレオン軍ではなく、ポルトガルから上陸し、フランス軍を撃退すべくスペインに進軍したイギリス軍でした。アリハの城は1887年にも大きな火災にあい、大きな被害を出したとのこと。

村の教会。建築素材はお城と同じ。
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

参考WEB

ビジャヌエバ・デ・ハムース Villanueva de Jamuz

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

ベナベンテからアストルガに向けて、点在する城を探しながら銀の道を北上していくと、ビジャヌエバ・デ・ハムスの村でまず最初に見えるのが、村はずれにあるキニョネス家のお城です。15世紀に建設されたお城は、大きな円塔が特徴。ドン・キホーテにも出てくる実在の騎士スエロ・キニョネスの所領でした。

銀の道(Via de la Plata)を北上すると、ビジャヌエバ・デ・ハムースで最初に見えてくるのが、このお城。
Castillo de Quiñones キニョネス家の城

15世紀初め、ディエゴ・フェルナンデス・デ・キニョネスマリア・デ・トレド夫妻により建設されたお城です。キニョネス家は、レオンのキニョネス・デル・リオにルーツを持つ貴族。ディエゴ・フェルナンデスは、フアン2世の治世で富を築き、「El de la Buena Fortuna」とも呼ばれました。ディエゴは、妻マリアの死後、ビジャヌエバは次男スエロ・キニョネスが相続するよう遺言しますが、スエロも、マリアの死後たった1年で、決闘で受けた傷がもとで死んでしまいます(1458年)。それでも、スエロの足跡は城にもちゃんと遺っており、入口の上にある騎士の紋章はスエロのもの。”Honor o Fin”「名誉か死か」との銘も刻まれています。

本物の騎士のお城

ところで、騎士だったスエロは、「オルビゴ橋でなし遂げた馬上槍試合の偉業」[セルバンテス『ドン・キホーテ』牛島信明訳、前編〈三〉P315より] で有名な人物です。彼は1434年7月に1か月間、カスティージャ王フアン2世の許可を得て、サンティアゴ巡礼路にあるオスピタル・デ・オルビゴ(Hospital de Órbigo)でオルビゴ川にかかる橋に陣取り、思いを寄せる貴婦人の名誉にかけて、橋を通ろうとする騎士に馬上槍試合を挑んでいました。1997年から、この同じ場所で、毎年6月第一週末に中世の槍試合が再現されています。

そして、スエロを死に追いやったのは、グティエレ・デ・キハーダという騎士。こちらもドン・キホーテが「勇猛果敢な…グティエレ・キハーダ(実を言えば、拙者もこのキハーダ家の男子直系の血をひくものでござるが)[牛島信明訳『ドン・キホーテ』より]」と言っていた人物です。グティエレもオルビゴ川の橋での決闘に挑んだ騎士の一人でした(この時、直接は対戦せず)が、グティエレとスエロの間には所領をめぐる争いが背景にあったとみられており、それが、後年の死に至る争いに発展したようです。

スエロの死後、城は息子ディエゴが継ぎますが、彼のいとこでラグーナ・デ・ネグリージョ(Laguna de Negrillo)の城を持つルナ伯爵がビジャヌエバ奪取をもくろみ、近くのサンタ・エレナ村に城の建設をはじめました。そればかりか、アリハ(Alija del Infantado)のペドロ・ピメンテルもこの城を狙っていたとか。ディエゴはカトリック両王に窮状を訴え、その庇護を仰ぎました。

ビジャヌエバの城は、ラグーナ・デ・ネグリージョの城とよく似ています。建設したのはどちらも前述のディエゴとマリアのキニョネス夫妻。さらに実際に城の建築に当たった職人も同じであったと考えられています。

ビジャヌエバはラグーナよりも遅くに建設されており、大きく頑丈な円塔が特徴的。大砲用の銃眼も造られていました。また、現在も遺るお城の周囲に、もう一周、城壁が巡らされていました。

入口の反対側に矩形の主塔(Torre de Homenaje)
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カスティージャ・イ・レオン州 レオン県 中世後期

フリアス Frías

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

村のはずれに立つ岩山の頂に、村の上に張り出すように建つお城。今にも家々の上に落ちてきそうです。実際に、過去には、城からの落石で命を落とした人もいたそうです。

城の入り口は、この塔の反対側にあります。村からは上り坂ですが入り口付近は平らなので、こちら側の警備は厳重でした。お城に入るには、跳ね橋を通って堀を渡ります。跳ね橋を渡ったら左に曲がり、堀沿いの外壁と城塞に挟まれた細い通路を進み主要門へ。主要門を入ったら今度は右に曲がって初めて城内に入ることができます。城に入るまでの間、跳ね橋のアーチの上から、通路の両側の城壁の上から、主要門の塔の上から、絶えず監視の目が光っていたわけです。

城内は不規則な四角形。入口から見ると正面に、先ほど村から仰ぎ見ていた主塔が建っています。主要門から見て左側の壁には二重アーチ窓が三つ並んでおり、騎士や神話上の動物(ハルピュイア:鷲のからだに女性の頭を持つ怪物)をモチーフとした装飾が美しいロマネスクの柱頭が、武骨な要塞建築の中で異彩を放っています。おそらくこの部分が城の最古の部分。城主の住居があった場所と思われます。反対側の壁沿いには兵舎や厩舎がありました。

柱頭の装飾が美しい二重窓

フリアスが史料に現れるのは9世紀。エブロ川上流域のレコンキスタが完了しキリスト教徒の村々ができていた頃。ナバラ、レオン、カスティージャを統一したナバラ王<大王>サンチョ3世(在位1000-1035)の死後、3人の息子たちが王国を分割相続すると、フリアスはナバラ領となりましたが、1054年にアタプエルカ(ブルゴス県)の戦いでカスティージャ王フェルナンド1世がナバラを退け、以後、カスティージャ領に。とはいえ、その後もしばらくはこの辺りでは、ナバラとの国境争いが続きます。

フリアスが繁栄したのは、カスティージャ王アルフォンソ8世(在位1158-1214)の時代。これまでメリンダデスと呼ばれるこの地方の行政の中心はペララダ城(1140ナバラ王による建設)でしたが、アルフォンソ8世がその役割をフリアス城に与え、防衛上もここを拠点としました。

現存する城の最古の建築部分はこのころの建設と考えられています。アルフォンソ8世は、ナバラ王国との国境線を防衛するために、近くのメディナ・デ・ポマールなどと併せて防衛ラインを築こうと、再植民に力を入れます。

このころ城塞主は世襲制ではなく、あくまでも王から任命されるものでした。フリアスの近くオニャの修道院長が、フリアス城塞主の横暴な振る舞いに対して、王に苦言を呈したという記録も遺っているそうです。しかし、レコンキスタの進行やキリスト教国間の国境の移動や消滅などによって、防衛上の重要地点が変化したり、貴族の力が強くなってくると、王は城塞を含めて所領を家臣に与えるようになり、貴族が所有する城が増えていきます。特に、14世紀のカスティージャ王位をめぐる内戦はその傾向に拍車をかけました。フリアスもその一例です。

1394年カスティージャ王エンリケ3世は、フリアスをディエゴ・ロペス・デ・スニガに与えるも、2年後にベハル(サラマンカ県)と引き換えにフリアスを取り戻し、「今後、いかなる王もフリアスを他の者に与えることはできない」という勅令を出しました。にも拘わらず、1446年息子のフアン2世はフリアスをペニャフィエル(バジャドリード県)と引き換えにペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコ(ブルゴス大聖堂のコンデスタブレ礼拝堂に眠るペドロ・フェルナンデスの父親。メディナ・デ・ポマール参照)に与え、フリアスの城は決定的に王権を離れます。これまで特別法を享受していた村人たちは、新しい城主に過酷な納税を要求されることを恐れ、その入場を阻止しようと蜂起!しかし、強大な軍事力を持つ大貴族が相手では、その顛末は明らかなこと。結局、包囲戦の末、降伏を余儀なくされました。この戦いの様子は現在でも「フィエスタ・デ・カピタン」と呼ばれる村祭りで語り継がれています。

この戦いの中で元からあった城塞はかなりの被害を受けたのか、ペドロ・フェルナンデスは直ちに城を修復。入口付近の外堀や二重の城壁、主要門のある塔などを新たに建設しました。村の上に張り出す主塔も15世後半の建設。村人たちに権威を誇示しています。

その後、ベラスコ家はカトリック両王の時代にフリアス公爵位を授かるなど、隆盛していきますが、フリアスは16世紀にコムニダーデスの乱に巻き込まれ、17世紀にはペストにより人口が激減。歴史の表舞台から姿を消していきます。

フリアスのもう一つの象徴は、エブロ川にかかる美しい橋。満々と水をたたえて地中海に流れ込むエブロ川ですが、フリアスではまだ生まれたてです。橋の本体は12世紀のロマネスク建築。橋の中ほどに建つ塔は14世紀のゴシック建築です。塔の上部には鋸壁や石落としもあり、なかなか強固な警備体制だったことがうかがえます。ラス・メリンダデスと呼ばれるこの地方から、南のブレバ地方(ブルゴス県)や東のリオハ方面に向かうためにはこの塔で橋通行税(Pontazgo)を払わなければなりませんでした。

お城から橋を眺めて…

おすすめルートは、ポサ・デ・ラ・サル参照。

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カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世前期 中世後期 フリアス公爵

フエンテス・デ・バルデペロ Fuentes de Valdepero   

カスティージャ・イ・レオン州パレンシア県

パレンシアから車で15分ほど北上すると、フエンテス・デ・バルデペロの村に、存在を誇示するかのように、どっしりとした構えのお城が見えてきます。もとは、もっとスマートなお城だったのですが、これほど大きくて重たい印象を与えるお城に生まれ変わったのには、悲しい理由があるのです。

サルミエント城 Castillo de Sarmiento

フエンテス・デ・バルデペロが再植民されたのは10世紀のこと。カスティージャ伯のフェルナン・ゴンサレスの子、ペドロ・デ・パレンシアの手によりました。この頃には何らかの城塞が建設されたようです。その後、ペドロ・アンスレス(バジャドリードの創設者)、カストロ家などの手を経て、14世紀にサルミエント家の所領に。

現存する城はサルミエント城と呼ばれます。15世紀半ば、フエンテス・デ・バルデペロの領主だったディエゴ・ペレス・サルミエントに、カスティージャ王フアン2世がサンタ・マリア伯爵の称号を与えました。サルミエント城の築城はこのころ。1465年ごろまでに建設されました。当時のお城は、現在のものよりもずっと華奢な主塔と、城壁に囲まれた「武器の中庭(Patio de armas)」がある、バジャドリードを中心にカスティージャによくある形のお城でした。(バジャドリード派のお城:トーレロバトン、フエンサルダーニャ、ペニャフィエル、ポルティージョ、ビジャロンソ etc.)

そんなお城の姿を一変させたのが、16世紀。ディエゴ・ペレスの孫娘コンスタンサの子、アンドレス・デ・リベラによる改築。きっかけとなったのは、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に不満を持った諸都市が結集して蜂起した、コムニダーデス(自治都市)の乱でした。

コムニダーデスの乱

1520年5月にトレドで始まった反乱は、主にカスティージャの諸都市を巻き込み大規模な戦役に発展(参照:メディーナ・デル・カンポ)。しかし、コムネロス(自治都市の人々)たちがフアナ女王のいたトルデシージャスを失うと、形勢は国王軍に傾きます。こうした中、サモラ司教だったアントニオ・アクーニャが、ほぼ全員が聖職者だったという自軍を駆使して、バジャドリードからパレンシアにあった国王派の領主たちの城を次々に襲いました。そのうちのひとつが、フエンテス・デ・バルデペロです。

1521年1月、フエンテス・デ・バルデペロにコムネロス軍が襲い掛かります。大砲攻勢を前に城は大きな被害を受け降伏。城は略奪され、城主一族は捕らえられて投獄されてしまいました。同年4月にビジャラールの戦いでコムネロス軍が破れ、反乱が鎮圧されると、城は返還され、アンドレス・デ・リベラも解放されます。

お城の改築

解放されたリベラは、さっそく城の再建に着手しますが、この時の主塔の改築がすごかった。彼は獄中で食べ物にも事欠くような散々な扱いを受けていたと伝えられています。この経験がよほど大きなトラウマとなったからなのか、大砲にもびくともしない難攻不落の城を造りたかったらしいのです。リベラは、破壊された城壁や東側の二つの円塔を再建するなど城の修復を行うとともに、主塔の周囲に分厚い壁を増築しました。その厚さたるや、場所によっては11メートルに達するというもの。現在のどっしりとした城はこうしてできあがりました。

しかし、おそらく改築工事が終わる前に、アンドレス・デ・リベラは城を売却。その後、相続や婚姻などにより城主が何度も変わりました。20世紀、廃墟となっていた城をパレンシア県が買い取り、修復を経て一般に公開されています。

階段を上がり降りして、塔の屋上や武器の中庭を囲む城壁上の回廊から、カスティージャの広大な風景を見渡したり、暗い牢獄に降りてみたり…、見学はなかなか楽しいのです。主塔には、11メートル!!の壁に窓が開いているので、中からその壁の厚さが実感できます。

パティオには、主塔の向かい側の城壁に沿ってサルミエント家の宮殿部分があり、2階建ての回廊もありましたが、廃墟となっていた19世紀末に崩落。現在は歴史資料館が造られています。回廊を飾っていた欄干や円柱は、村の教会(Iglesia parroquial Nuestra Señora de la Antigua)の聖歌隊席などに利用されています。

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カスティージャ・イ・レオン州 パレンシア県 中世後期 バジャドリード派 コムネロス

参照WEB

ポサ・デ・ラ・サル Poza de la Sal

カスティージャ・イ・レオン州ブルゴス県

ブルゴスから車で40分ほど北上すると、マサ平原(Paramo de Masa)の西端、ポサ・デ・ラ・サル村の後ろにそびえる岩山の中腹に塔と城壁、そのはるか上の山頂に円塔を擁する城塞が見えてきます。これは楽しみなロケーション。山間の狭い土地を利用した山城にはいろいろな工夫があって、平地にある洗練されたお城とはまた違った楽しみがあるのです。

入り口は山の裏側

山頂にある城塞は、「石になった波の上に浮かぶ船」(ディオニシオ・リドルエホ”Castillos de Burgos“より)のよう。山頂には村の裏手から簡単に車で登れるのでご心配なく。車から降りたら二つの小さな塔からなる門を通り、かつては城壁で囲まれていた「武器の広場」であったであろう場所を通り、岩を削って作った急な階段(こういうのが超楽しい)を登り、尖塔アーチの入り口をくぐって城内へ。お城は岩山をくりぬいて土台を固めた上に石を積んで建設されており、むき出しの岩肌と石積みが組み合わされた壁に、その様子があらわれています。平らな土地など全くない場所に建てられている割に、内部は広く感じられます。かすかに尖塔がかったヴォールトをいただく廊下(それとも広間?)は、長さ16m×幅4m。廊下の奥の階段を登って屋上に出ると、南東に広がる平原をはるか遠くまで見渡せます。

お城の発掘調査で、ポサ・デ・ラ・サルには先史時代から集落があったことが確認されました。特にローマ時代には塩の生産が盛んになり、豊かさを享受していたことが想像できます。

ロハス家の城 Castillo de los Rojas

8世紀のイスラム勢力の侵入後、「ポサ」の名が文献に現れるのは9世紀。明らかに「Pozo de la sal(塩井戸)」が語源となった名前です。10世紀には再植民が行われており、このころにはすでに何らかの要塞があった可能性もあります。13世紀、王領だったポサはカスティージャ王フェルナンド4世(在位:1295-1312)がフアン・ロドリゲス・デ・ロハスに与え、以後、ロハス家の所領となりました。現在の城塞は14世紀初頭に彼らによって建設されたものと推測されています。さらに14世紀末に、婚姻によりポサはディエゴ・フェルナンデス・デ・コルドバ(1355-1435/カスティージャ王フアン1世、エンリケ3世、フアン2世の側近)の所領となると、彼も城を改築し、ほぼ現在の姿となりました。

城塞からふもとの村を囲むように建設された城壁も一部が遺っています。村とともに大切な塩田も守っていました。また、山の中腹に見える塔は、ロハス家の宮殿のもの。16世紀の建設です。この宮殿の建設とともに、山頂の城塞は次第に放置されていきました。16世紀、コニャック同盟戦争*後の交渉に訪れたベネツィア大使アンドレア・ナバジェロは、1528年、カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の命によりポサの城に幽閉され、その様子を「この地の領主は山の中腹に立派な館があるが、山頂にも屈強な城も持っており、そこに登るのは至難の業…」と語っています。

19世紀初頭、スペインに侵入したナポレオンの軍隊は、ポサの城を修復して駐屯していたとのこと。

ちなみに、古くから塩の生産で栄えてきたポサ。レコンキスタ以降、多くの塩田が修道院により経営されていましたが、12世紀からはカスティージャ王家も塩田経営に乗り出しました。16世紀になるとフェリペ2世が塩をスペイン王家の専売とし、それは19世紀まで続いたとのこと。岩塩鉱に掘った溝に水を通して塩を含ませ、その塩水を塩田に流しいれて天日で干し、塩を生産していました。

おすすめルート

ポサは、ブルゴスから45km、車で40分ほど。そこから→15km→カスティージャ伯一族が眠るオニャ (Oña) の修道院→25km→フリアス (Frías)(お城と橋)→85km→ブルゴスで、1日コース。

おまけ

塩田と言えば、アニャーナ(Añana – バスク州アラバ県)。古代から続く歴史ある塩田です。バスクの名店御用達。塩の生産は夏場だけなので、ぜひ夏に!

フリアスから車で40分ほど。ちなみに、ビトリアから45分、ブルゴスから70分ほど。

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カスティージャ・イ・レオン州 ブルゴス県 中世後期 産業遺産 塩田

ビジャロンソ Villalonso

カスティージャ・イ・レオン州サモラ県

15世紀後半にカスティージャで流行ったデザインのお城です。ティエドラ城の塔の上からすぐ近くに見えます。

バジャドリード派

カスティージャ王エンリケ4世(在位1454-1475)がメディナ・デル・カンポやポルティージョの城の改築を行うと、それに倣って、多くの貴族が自分の領地に城を建設、あるいは既存の城を改築しました。このころにバジャドリードを中心に建設された城は皆、ほぼ正方形の城壁に守られ、その一角に正方形の主塔が建つという、ビジャロンソの城によく似たデザイン。これらの城はバジャドリード派と呼ばれます。ただし、戦いにはすでに大砲が使われており、華奢な塔は大砲を前に防衛施設の役にはあまり立たなくなっていました(参照:フエンテス・デ・バルデペロ)。城はむしろ所領の人々に対して権力を誇示するためのものとなっていきます。

騎士団

ビジャロンソは中世を通じて、様々な手に委ねられました。15世紀初頭、アルカンタラ騎士団*の手にあったビジャロンソを、アロンソ・ペレス・デ・ビベロが購入。1470年に彼がフアン・デ・ウジョアに、他の領地と交換する形で譲渡しました。フアンは、周囲の領地とともにマヨラスゴ(長子が一括して相続する財産)を創設し、現存する城を建設。この場所にはおそらくアルカンタラ騎士団の要塞があったものと推測されます。

カスティージャ王位継承戦争 ― 未亡人マリア・サルミエント

1474年、エンリケ4世が死去すると、カスティージャ王位をめぐって王の異母妹イサベル1世と庶子フアナ(ラ・ベルトラネハ)の間で内戦が勃発します。フアン・デ・ウジョアはフアナ側を支持。この時、フアンはトーロ(サモラ県)のアルカサルの城塞主でした。この内戦の中、王位の行方を決定づけたのが1476年の「トーロの戦い」です。カスティージャに進軍していたポルトガル王アルフンソ5世軍(寡夫となっていたアルフォンソ5世―43歳―は、14歳のフアナと婚約しカスティージャ王位を狙う)はイサベル1世の夫フェルナンド率いる軍に敗れるも、ポルトガル王太子ジョアン軍はカスティージャ軍を殲滅…。多くの戦死者を出した戦いでしたが、はっきりとした勝者はないまま戦闘は終わりました。しかし、この戦い以降、フアナ派はカスティージャ内での支持を失って行き(これには、トーロの戦い後、フェルナンドが国内外にカスティージャ勝利を知らせる使者を送ったことも影響していると言われる)、翌年のアルカソヴァ条約で内戦は終結、女王イサベル1世の地位が固まりました。

この戦いの初期に、トーロ城塞主だったフアン・デ・ウジョアは戦死してしまいました。未亡人となった妻のマリア・サルミエントはしばらくトーロで抵抗を続けます。結局、彼女はトーロはもちろん、モタ・デ・マルケスなど複数の所領をイサベル王女に譲渡せざるを得なくなりますが、交渉のすえ、なんとかビジャロンソの保有は許されて、トーロの城を明け渡しました。

コムニダーデスの乱

さらにフアンとマリアの子ディエゴ・デ・ウジョアも、16世紀のコムニダーデスの乱(参照:フエンテス・デ・バルデペロ)で蜂起軍に加担(また負け組に加担してしまった…)。反乱終結後にはあわや死刑!になるところでしたが、1万ドゥカドを払って死刑を回避し、ビジャロンソも含め財産もすべて取り戻しました。

わずかだが外壁が遺る
ビジャロンソ城 Castillo de Villalonso

城を囲んでいた堀はほぼ埋まり、大砲の使用が考慮された大きな鋸壁を有する外側の城壁は(おそらく、前述のカスティージャ王位継承戦争の際に建設された)ほんの一部が遺っているだけですが、主塔をはじめ、城の本体はよく保存されています。ほぼ正方形の城壁の4隅に円塔、東側の城壁の中央に堂々たる主塔が建っています。城への入り口は主塔の左側。入口の上にある二つの紋章は、ウジョア家(右)とサルミエント家のものです。主塔への入り口は中庭に面した2階に開いています。

1970年代には、ショーン・コネリーとオードリ・ヘップバーン主演『ロビンとマリアン』など、たびたび映画の撮影に使われていました。

現在、この城は個人が所有しています。1980年代にオスナ公爵家から城を買った現在の所有者が修復し、一般に公開中(ただし、夏季日曜日午前中のみ 2021年現在)。

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カスティージャ・イ・レオン州 サモラ県 中世後期 バジャドリード派 

ティエドラ Tiedra

カスティージャ・イ・レオン州バジャドリード県

どっしりとした塔を城壁が取り囲む、カスティージャ地方によくあるタイプのお城です。お城の起源はおそらく12世紀。イベリア半島の北部でレオン王国、カスティージャ王国、アラゴン王国が覇権を争っていた時代です。

村に近いこちら側の城壁は14世紀の建設
12世紀 ―レオン王国 VS カスティージャ王国

711年にイベリア半島に上陸したイスラム教勢力を、半島北部コバドンガで退けたドン・ペラヨが築いたとされるアストゥリアス王国の系譜を継いだのがレオン王国。レオン王国の辺境で生まれたカスティージャ伯領から誕生したのがカスティージャ王国。11世紀、カスティージャ王国初代王フェルナンド1世がレオン王ベルムード3世から王位を奪い(1037年)、レオン―カスティージャ同君連合王国が誕生します。しかし、1065年フェルナンド1世が没すると、カスティージャを長男のサンチョ2世、レオンを次男のアルフォンソ6世がそれぞれ相続したため連合王国は分裂。サンチョ2世は兄弟たちから力づくで王位を奪い半島北部の再統一を目指すも、1072年サモラで暗殺されてしまいます。すると、弟のレオン王アルフォンソ6世がカスティージャ王位を継承し、再びレオン-カスティージャ同君連合が成立。アルフォンソ6世の孫アルフォンソ7世の死後(1157年)に再び分裂しますが、アルフォンソ7世の孫レオン王アルフォンソ9世の死後、その子ですでにカスティージャ王位を継いでいたフェルナンド3世(母はカスティージャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲーラ)が1230年レオン王位も継承し(ベナベンテ協定)、以降、両国が分裂することはありませんでした。

ティエドラ城 Castillo de Tiedra

ティエドラの城が文献に現れるのは、11世紀。カスティージャ王サンチョ2世の時代(在位1065-1072)。父であるカスティージャ王フェルナンド1世から王位を継いだサンチョが、サモラの所領を巡って姉ウラカと交わした文書が遺っており、その中に、ティエドラの城も出てくるのだそうです。12世紀、アルフォンソ7世の死後再びレオン―カスティージャが分裂すると、ティエドラはレオン王フェルナンド2世(在位: 1157-1188)が相続。このころ、ティエラ・デ・カンポスと呼ばれるこの地方は、しばしば両王国の戦闘の場となりました。フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世(在位: 1188-1230) は、カスティージャ王国との闘いのなか、和睦のためにカスティージャ王アルフォンソ8世の娘ベレンゲーラと結婚しますが、教皇の許可を得られずに離婚。その賠償としてティエドラの城を彼女に与えました。

ここから、城の持ち主が変わる経緯ですが、長いうえややこしいので飛ばしてくださって構いません。

13世紀、アルフォンソ10世を継いだサンチョ4世は、1285年、側近(Mayordomo mayo)ペドロ・アルバレスにティエドラを与えました。その娘テレサは、サンチョ4世の妻マリア・デ・モリーナの兄で、メネセス(パレンシア)の領主だったアルフォンソ・テジェス・デ・モリーナと結婚しており、こうしてティエドラはメネセス家の所領に。

その後、アルフォンソの孫アルフォンソ・テジェス・デ・メネセスが若くして亡くなったため、ティエドラをはじめ所領は妹のイサベル・テジェスが相続。彼女はアルブルケルケ領主フアン・アルフォンソ・デ・アルブルケルケと結婚していました。フアン・アルフォンソはカスティージャ王ペドロ1世(残酷王/在位: 1350-1369)の側近でしたが、エンリケ2世との王位をめぐる内戦の最中、敵側に通じたために(おそらく)ペドロ1世の命により毒殺されてしまいました。ティエドラは内戦に勝利し王位に就いたエンリケ2世(在位: 1369-1379) の手に。彼はティエドラをはじめ所領を弟のサンチョに与え、アルブルケルケ伯爵位を授けました。

初代アルブルケルケ伯爵サンチョの娘、レオノールは後にアラゴン王位を継ぐフェルナンド・デ・アンテケーラ(アラゴン王在位 1412-1416)と結婚。ティエドラはその子どもたち「アラゴンの親王たち」の手に。後にフアン2世(在位: 1406-1454)が彼らからティエドラを接収し、ヒロン家に与えました。

…すみません。長くなってしまいました。

ティエドラ城の建設は12世紀?

ティエドラ城で最も古い部分は、城壁の北面と東面。12世紀、レオンとカスティージャが覇権を争っていたころに、ティエドラの村を囲む市壁が建設され、この部分はその一部であったと考えられています。ティエドラ城の前身は、村全体を防衛するために、市壁の内部にありました。

塔が建設された時期については異論がありますが、13世紀から14世紀初め、メネセス家により建設されたと考えられてきました。ただし、切石が周囲の城に比べて小さいことや、入り口のアーチが他の城には見られないものであることなどから、古い城壁とほぼ同じ時期、1200年ごろの建設とする意見もあります。11mx9mのほぼ正方形の塔は、高さ28m。地上部分は3層に分かれており、さらに地下階もあります(地下は見学不可)。

そして、14世紀に、現在の城壁の南面と西面が建設され、塔は村から隔離されました。こうして、市壁内にあった城を村から隔離して独立した城とすることは、13世紀末から14世紀にかけて、貴族の所領が多くなっていく中でよく行われていたのだそうです。

早春のティエドラ

2004年にティエドラ村が城を買い取り、修復を経て公開されています。

おすすめルート

塔の上から南に見えるお城はビジャロンソ城。そして、ここまで来たら、もうひとつ必見があります。近くのサン・セブリアン・デ・マソテにあるサン・シプリシオ教会は、馬蹄形アーチが連なる美しいモサラベ*の教会です(左の写真)。

バジャドリードから→20km→バンバのモサラベ教会→24km→サン・セブリアン・デ・マソテのモサラベ教会→9km→ロマネスクの香部屋Sacristiaが遺るシトー会の修道院、サンタ・エスピーナ修道院→10km→城壁に囲まれた村ウルエニャ→14km→ティエドラ城→9km→ビジャロンソ城→33km→トルデシージャス

1日でモサラベの教会と中世のお城を満喫💓。

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カスティージャ・イ・レオン州 バジャドリード県 中世前期 中世後期

ポンフェラーダ Ponferrada

カスティージャ・イ・レオン州レオン県

お城の入り口付近はまさにヨーロッパの中世のお城!堀を渡る橋、城壁にある二つの小塔に挟まれた入口、幾重にも建設された城壁に鉤壁…お城らしい要素が詰まったフォトジェニックなお城です。

Torre de Moclín(左), Torre de la Puerta(中央), 入口、Torre de Cabrera(右)
テンプル騎士団の城 Castillo templario

11世紀、アストルガの司教が、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者のためにシル川に橋を架けるよう命じました。この時に造られた橋が鉄で補強されていたため、Pons Ferrata(鉄の橋)からポンフェラーダという名前が生まれたと言われています。

ポンフェラーダの城は、「テンプル騎士団の城」と呼ばれています。1178年、レオン王フェルナンド2世は、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者を守るためという理由で、ポンフェラーダをテンプル騎士団に与えました。このうち城に関しては、フェルナンド2世を継いだアルフォンソ9世が1204年にテンプル騎士団から取りあげ、1211年に彼らに返したとの記録も遺っています。その理由については、テンプル騎士団がカタリ派との関係を疑われたためとの説もありますが…わかっていません。

他方、レオン王国とカスティージャ王国は、フェルナンド3世(カスティージャ王在位1217年 – 1252年)の治世に統一されるまで、たびたび国境を争っていました(この辺の経緯はティエドラ参照のこと)。1196年、カスティージャ王アルフォンソ8世がポンフェラーダのあるビエルソ地方に進軍。レオン王アルフォンソ9世はこの地方を守るために、村々の植民を強化。こうした背景も、ポンフェラーダをテンプル騎士団に委ねる理由のひとつだったようです。テンプル騎士団は、1226年までに、ここに彼らの城を築きました<13世紀の建設部分>。

ポスト・テンプル騎士団 ― その後のポンフェラーダ

しかし、テンプル騎士団は1312年に教皇庁により正式に禁止され、解体。ポンフェラーダ城は紆余曲折を経て、アルフォンソ11世が1340年にMayordomo mayorペドロ・フェルナンデス・デ・カストロに与えました。この人物が、テンプル騎士団の城塞を改築し、現在も遺る旧城(Castillo viejo)の建設を始めたと推測されています<14世紀の建設部分>。

1343年にペドロの死後ポンフェラーダを相続したのは娘のフアナ・デ・カストロ。早くに最初の夫を亡くし未亡人となったフアナはアルフォンソ11世を継いでカスティージャ王になったペドロ1世に見初められて1354年に結婚したものの、ペドロ1世はすでにフランスの王女ブランシュと結婚していたため、教皇から結婚の取り消しを言い渡され、その後はペドロ1世から譲り受けたドゥエニャス(パレンシア県)で余生を送りました。1374年にフアナが死去すると、内戦の末ペドロ1世を殺して王位に就いていた異母弟エンリケ2世がポンフェラーダを接収。

エンリケ2世は城を息子のエンリケ親王に与えますが、彼が謀反を謀ったため城を取り上げ、これをペドロ・エンリケス(双子の弟ファドリケの子)に与えました。後に城はペドロ・エンリケスの子ファドリケ・エンリケスが相続しますが、アラゴンの親王*たちを支持したことを理由に彼は1430年フアン2世に処刑されてしまいます。未亡人となったファドリケの妻、アルドンサ・デ・メンドサ(父ディエゴ・ウルタド・デ・メンドサ1367-1404―マンサナレス・エル・レアル参照)はこれをいとこのペドロ・マンリケ(1381-1440)与え、さらに息子のディエゴが相続。しかし、フアン2世に処刑されたファドリケ・エンリケスの妹ベアトリスと結婚していたガリシアの貴族ペドロ・アルバレス・オソリオが城の所有権を主張し、城を占拠しました。ベアトリスは、フアン2世から、もともとファドリケのものだった所領を受け取っていたため、ペドロは彼女との結婚により、ガリシアからビエルソ地方にかけて多くの所領を有する有力貴族となっていたのです。

こうした中、1467年、ガリシアおよびビエルソ地方で「イルマンディーニョスの反乱」と呼ばれるの反乱がおこります。飢饉や伝染病の流行などからくる社会不安が高まり、重税を課すなど専横的な貴族たちへの不満を募らせていた人々は「イルマンダーデIrmandade(カスティージャの エルマンダHermandad=自警団)」を結成し、貴族の城や館などを次々に襲いました。多くの城が被害を受ける中、ポンフェラーダもその対象となりましたが、強固な城が反乱に屈することはありませんでした。とはいえ、被害は重大で、反乱後に城の修復は避けられず、この時に、新城と呼ばれる部分が建設されています<15世紀の建設部分>。

旧城の城壁の上から新城を眺める

ペドロ・アルバレス・オソリオは、早世した息子アロンソの庶子ロドリゴ・オソリオ(つまりペドロと最初の妻ベアトリスの孫)に所領を相続させようとしました。ポンフェラーダ城には至る所に紋章があります。ペドロは二人目の妻、マリア・バサンとの婚姻中に建設した部分に、先妻との間の孫にあたるロドリゴがこの城を相続することの正当性を主張すべく、先妻ベアトリスの紋章を設置したのだそうです。

1483年、ペドロ・アルバレス・オソリオが近くのコルナテル城(Castillo de Cornatel)で死去すると、ロドリゴ・オソリオが城を占拠。叔母フアナ(ペドロとマリア・バサンの娘)との間に、ポンフェラーダ城をめぐる闘いが始まります。さらに、前述のディエゴ・マンリケも城の所有権を主張。ここに、カトリック両王が介入し、フアナ・オソリオの所有権を認める裁決を下します。しかし、ロドリゴがこれをつっぱねたため、1486年、カトリック両王はロドリゴの財産を没収するとともに、軍を招集。フアナから城の所有権を買い取り、ポンフェラーダを包囲し、大砲も使った大掛かりな攻撃に打って出ました。ロドリゴは降伏。ポンフェラーダはカトリック両王の所領に。カトリック両王もまた、城の修復と改築に取り掛かります。

しかし、ロドリゴはしぶとかった。1507年に再度ポンフェラーダを占拠。もちろんカトリック両王が黙っているはずもなく、ベナベンテ伯爵やアルバ公爵に命じて軍を派遣。ようやくロドリゴはガリシアへと逃げていきました。

城内解説ボード
黄色:13世紀 / 赤:14世紀(旧城)/ グレー:15-16世紀(新城、外壁など)

というわけで、テンプル騎士団のお城と銘打たれたポンフェラーダ城ですが、実際に騎士団の時代から遺っているのは、入り口から旧城へと向かう城壁部分のみ。のこりは、前述のように、領主が変わるたびに改築・増築が重ねられてきました。15世紀から王領であったポンフェラーダですが、城の重要性は次第になくなっていきます。それでも19世紀までは城壁内に宮殿が遺っていましたが、19世紀以降は城の切り石が新しい建物の建設に使われたり、挙句の果てには城内をサッカー場にするために整地したり…幸い、国が介入し重要文化財に指定したため実際にサッカー場として使われることはなく、さらなる受難は免れました。

城壁を外側から。奥の塔はTorre de Malvecino
おすすめルート

ポンフェラーダまで来たら、ラス・メドゥラスは絶対におすすめ。ラス・メドゥラスへ行く途中に、コルナテル城(Castillo de Cornatel―Villavieja村)があります(山頂に建つ城の雄々しいシルエットに心ひかれたものの、日没により見学することはできませんでした😢。見学は木曜日から日曜日*)。

車で50分ほどの少々ハードな行程ですが、サンティアゴ・デ・ペニャルバ(Santiago de Peñalba)に美しいモサラベの教会があります。(見学は週末のみ…夏休み中も例外はなく、月曜日にポンフェラーダに着いた私は涙をのみました*😢)。ペニャルバが無理でもポンフェラーダの郊外にサント・トマス・デ・ラス・オジャス(Santo Tomás de las Ollas)のモサラベ教会があります。馬蹄形アーチが連なるアプスが美しい。こちらは、教会のある広場に住むおばちゃんがカギを開けて、ガイドもしてくれます*(おしゃべりが止まりません)。

*見学時間等の情報はいずれも2022年のものです。

参照WEB
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ゴルマス Gormaz

カスティージャ・イ・レオン州ソリア県

丘の上に建つ巨大な要塞。見どころは何と言っても、城壁の南面に開く2重の大馬蹄形アーチです。城からの眺めも圧巻。カスティージャの大地をはるか彼方まで見渡せる。この城の存在意義がよくわかる眺めです。

ゴルマス城 Fortaleza de Gormaz

965-66年、コルドバ後ウマイヤ朝のアルハカム2世によりこの地方に派遣されていた「ガーリブ将軍」(スペイン語の文献に現れる呼称。後ウマイヤ朝の3人のカリフ―アブデラマンIII、アルハカムII 、ヒシャムII―に仕えた軍人)により建設(あるいは再建)が命じられたと伝えられており、近くの教会から建設年や当時のカリフ、アルハカム2世の名を刻んだ礎石が発見されたことからも、この時期に建設されたのは確かなようです。ちょうど、コルドバに都を置いた後ウマイヤ朝が繁栄を極めていたころ。近くを流れるドゥエロ川が南のアルアンダルス(イスラム教勢力圏)と北のキリスト教勢力圏を分ける境界線となっており、ゴルマスから80km南にあるメディナセリが、後ウマイヤ朝の辺境防衛最重要拠点でした。彼らはゴルマスに、北方のキリスト教勢力ににらみを利かせるための前線基地的な役割を担わせたかったのでしょう。軍事的にも行政的にも重要な城だったことをうかがわせる、威厳を感じさせる城です。

当時のこの地域は両勢力の進軍が絶えず、ゴルマス城も両者の間を行き来していました。実際に975年にはレオン・ナバラのキリスト教王国連合軍が城を包囲するも、ガーリブ軍がこれを撃破。しかし、3年後にはキリスト教軍が奪い返し、その後アルマンソール*が奪回…

完全にカスティージャ王国領になったのは、初代王フェルナンド1世が現在のグアダラハラまでを征服した11世紀後半のこと。1087年には、アルフォンソ6世がエル・シド*にゴルマスを与え、エル・シドの死後は再び王領になっています。しかし、14世紀の内戦を経て、他の多くの城と同様、ゴルマスもカスティージャ王家を離れて貴族の所領に。1395年、エンリケ3世によりメンドサ家(参照:マンサナレス・エル・レアル)に与えられました。

城塞の全体像(北側)

小高い丘の頂上に地形に合わせて建設された城は、とにかく大きい!高さ10m以上、周囲1,000mを超える城壁に囲まれ、城壁から突き出た28の塔が並んでいます。

城壁に囲まれた西側の広大な部分は軍隊が集い、戦争に必要な軍馬や武器などが保管されていた場所。現在、城壁の中は草が生え石が転がる更地ですが、何といっても、目玉は南の壁面に開いた美しい2重の大馬蹄形アーチ!! アルハンブラの裁きの門を思わせる堂々たる馬蹄形アーチがこんなに北で見られるなんて!

東端はアルカサル。城の心臓部分です。こちらは城の内壁も多少は遺っており、主塔、10万リットルの容量がある貯水槽など、往時の間取りを想像することもできます。また、この部分には14世紀の改築の跡も遺っており、この時に、アルカサルの西側に堀が掘られ、この部分の城壁が高く改築され、城内西側の広場からアルカサルへの入り口となっている塔(トラスタマラ塔)が建設されました。少数で防衛できるよう、城の一部分の防衛を強化したものと推測されます。

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