オレジャン村のはずれにあるオレジャン展望台(Mirador de Orellán)から、ラス・メドゥラスを一望できます(上↑の写真)。この展望台の近くには、坑道への入り口もあるので是非!人数制限があるので少々待たなければならないかもしれませんが、その価値あり、です。坑道の中は夏でも寒いので、ご注意を。身長160㎝の私でも、腰をかがめて歩かなければならない場所もありました。ヘルメットを貸してくれます*。
フェリペ2世(スペイン王在位1556-1598)は1581年、ポルトガル議会でポルトガル国王として承認されました。こうして、西葡国境はしばらく消滅していましたが、1640年、ポルトガルがブラガンサ公を国王に推して独立を宣言(ジョアン4世)すると、ポルトガルとの国境はにわかにキナ臭くなります。18世紀初頭のスペイン継承戦争の際には、カール大公(神聖ローマ皇帝レオポルド1世の子)を支持したイギリスとポルトガルの連合軍がスペインに進軍し、シウダ・ロドリーゴ、プエブラ・デ・サナブリア、フェリセス・デ・ロス・ガジェゴスを占領。翌年、フェリペ5世(アンジュ―公フィリップ、仏王ルイ14世の孫)はシウダ・ロドリーゴを奪回するものの、プエブラ等がスペインに返還されたのは1713年(ユトレヒト条約)でした。この間にポルトガル軍はプエブラに、砲撃に耐え得る近代的な要塞を建設。これが、サン・カルロス城(Fuerte de San Carlos)です。この後、フェリペ5世は、中世の城塞を利用して、ポルトガル国境線に防衛ラインを整備していきました。写真は↓下のWEBで。
バルシエンセ村のはずれ、墓地へ至る道をさらに進むと、城塞が見えてきます。二つの円塔からなる門を通って、お城の本体へ。この二つの円塔は、おそらく城塞を取り囲む外壁にあったもの。外壁の外側には堀もあったようですが、現在は外壁も堀も失われてしまいました。お城は長方形。その城壁の一画に矩形の主塔(Torre de Homenaje)、二隅に円塔、そして、現在は城壁よりも低くなっていますが、主塔よりも大きな長方形の塔が遺っています。前述の堂々たるランパント・ライオンが彫刻されているのは、主塔です。
銀の道(Via de la Plata)を北上すると、ビジャヌエバ・デ・ハムースで最初に見えてくるのが、このお城。
Castillo de Quiñones キニョネス家の城
15世紀初め、ディエゴ・フェルナンデス・デ・キニョネスとマリア・デ・トレド夫妻により建設されたお城です。キニョネス家は、レオンのキニョネス・デル・リオにルーツを持つ貴族。ディエゴ・フェルナンデスは、フアン2世の治世で富を築き、「El de la Buena Fortuna」とも呼ばれました。ディエゴは、妻マリアの死後、ビジャヌエバは次男スエロ・キニョネスが相続するよう遺言しますが、スエロも、マリアの死後たった1年で、決闘で受けた傷がもとで死んでしまいます(1458年)。それでも、スエロの足跡は城にもちゃんと遺っており、入口の上にある騎士の紋章はスエロのもの。”Honor o Fin”「名誉か死か」との銘も刻まれています。
入口のある円塔。右に奥の主塔も見える。入口の上に騎士の紋章
本物の騎士のお城
ところで、騎士だったスエロは、「オルビゴ橋でなし遂げた馬上槍試合の偉業」[セルバンテス『ドン・キホーテ』牛島信明訳、前編〈三〉P315より] で有名な人物です。彼は1434年7月に1か月間、カスティージャ王フアン2世の許可を得て、サンティアゴ巡礼路にあるオスピタル・デ・オルビゴ(Hospital de Órbigo)でオルビゴ川にかかる橋に陣取り、思いを寄せる貴婦人の名誉にかけて、橋を通ろうとする騎士に馬上槍試合を挑んでいました。1997年から、この同じ場所で、毎年6月第一週末に中世の槍試合が再現されています。
スエロの死後、城は息子ディエゴが継ぎますが、彼のいとこでラグーナ・デ・ネグリージョ(Laguna de Negrillo)の城を持つルナ伯爵がビジャヌエバ奪取をもくろみ、近くのサンタ・エレナ村に城の建設をはじめました。そればかりか、アリハ(Alija del Infantado)のペドロ・ピメンテルもこの城を狙っていたとか。ディエゴはカトリック両王に窮状を訴え、その庇護を仰ぎました。
現存する城はサルミエント城と呼ばれます。15世紀半ば、フエンテス・デ・バルデペロの領主だったディエゴ・ペレス・サルミエントに、カスティージャ王フアン2世がサンタ・マリア伯爵の称号を与えました。サルミエント城の築城はこのころ。1465年ごろまでに建設されました。当時のお城は、現在のものよりもずっと華奢な主塔と、城壁に囲まれた「武器の中庭(Patio de armas)」がある、バジャドリードを中心にカスティージャによくある形のお城でした。(バジャドリード派のお城:トーレロバトン、フエンサルダーニャ、ペニャフィエル、ポルティージョ、ビジャロンソ etc.)
パティオには、主塔の向かい側の城壁に沿ってサルミエント家の宮殿部分があり、2階建ての回廊もありましたが、廃墟となっていた19世紀末に崩落。現在は歴史資料館が造られています。回廊を飾っていた欄干や円柱は、村の教会(Iglesia parroquial Nuestra Señora de la Antigua)の聖歌隊席などに利用されています。
カスティージャ北部からポルトガル北部、ガリシア、アストゥリアスやカンタブリアにかけて、様々な形のオオカミ罠が遺っています。呼び名はいろいろ。ルビアンから北に車で約30分の位置にあるバルハコバ(Barjacoba)にも、ルビアンとよく似たオオカミ罠があるそうです。こちらは”Corro dos lobos”と呼ばれます。
ブルゴスから車で40分ほど北上すると、マサ平原(Paramo de Masa)の西端、ポサ・デ・ラ・サル村の後ろにそびえる岩山の中腹に塔と城壁、そのはるか上の山頂に円塔を擁する城塞が見えてきます。これは楽しみなロケーション。山間の狭い土地を利用した山城にはいろいろな工夫があって、平地にある洗練されたお城とはまた違った楽しみがあるのです。
入り口は山の裏側
山頂にある城塞は、「石になった波の上に浮かぶ船」(ディオニシオ・リドルエホ”Castillos de Burgos“より)のよう。山頂には村の裏手から簡単に車で登れるのでご心配なく。車から降りたら二つの小さな塔からなる門を通り、かつては城壁で囲まれていた「武器の広場」であったであろう場所を通り、岩を削って作った急な階段(こういうのが超楽しい)を登り、尖塔アーチの入り口をくぐって城内へ。お城は岩山をくりぬいて土台を固めた上に石を積んで建設されており、むき出しの岩肌と石積みが組み合わされた壁に、その様子があらわれています。平らな土地など全くない場所に建てられている割に、内部は広く感じられます。かすかに尖塔がかったヴォールトをいただく廊下(それとも広間?)は、長さ16m×幅4m。廊下の奥の階段を登って屋上に出ると、南東に広がる平原をはるか遠くまで見渡せます。
8世紀のイスラム勢力の侵入後、「ポサ」の名が文献に現れるのは9世紀。明らかに「Pozo de la sal(塩井戸)」が語源となった名前です。10世紀には再植民が行われており、このころにはすでに何らかの要塞があった可能性もあります。13世紀、王領だったポサはカスティージャ王フェルナンド4世(在位:1295-1312)がフアン・ロドリゲス・デ・ロハスに与え、以後、ロハス家の所領となりました。現在の城塞は14世紀初頭に彼らによって建設されたものと推測されています。さらに14世紀末に、婚姻によりポサはディエゴ・フェルナンデス・デ・コルドバ(1355-1435/カスティージャ王フアン1世、エンリケ3世、フアン2世の側近)の所領となると、彼も城を改築し、ほぼ現在の姿となりました。